花房幻影伝 お蘭! ― 月光の巻 ―
〈第二幕〉
娘の長いまつげが、ぱちぱち揺れる。
「――あぁ、あんた! いつぞやの同心じゃないか」
歳に似合わぬ風格あるたたずまい、紺の小袖に桃割れの髪には藤色の玉かんざし。
日本橋での騒動の折、食い逃げ犯の捕縛を助け、清四郎を一喝した、あの娘だ。
百万人が住むといわれる江戸の町、再会を果たすとはまさに奇縁である。
「堪忍して、お蘭ちゃん! 店賃は来月までには耳を揃えて払うから」
割り込むように駆け寄るお峰。蘭と呼ばれるこの娘、どうやら彼らの住まう神田錦町串之介長屋の、若き元締め(管理人)らしい。
店賃が払えず身売りした女の噂は絶えない。このままではお峰も――。
「ちょいと、顔上げとくれよ。困ったときはお互い様だろ?」
慈しむように緩んだ蘭の表情に、清四郎はハッと息を呑む。あの日と同じガラス玉のような穢れなき瞳に、心の奥がにわかにざわめく。
「それより、頼みたいことがあんのさ。お峰さん、お針子得意だろ? 知り合いの呉服屋から、来月の神田祭の半被の仕立て大量に回されちまって…」
ぱちんと片目をつむる、それは合図。
「手ぇ貸しとくれよ。手間賃も出るし、店にゃあたしのほうから口きいとくからさ!」
「う…うわぁぁ~ん! 恩に着るよぉ!」
堰を切ったように泣き出すと、お峰は蘭に抱きついていた。
内職が増えるとは願ってもないこと、蘭の機転でひとりの若妻の人生が守られたのだ。
だが、一件落着と思われたそのときだった。
「おい、弥二のやつが逃げやがるぞ!」
全ての元凶が長屋の木戸をくぐり、なんとトンズラしようとしているではないか。
「おぬし、この期に及んで――」
十手を抜きかけた清四郎の耳元を、鋭い風の唸りが通り抜けた。次の瞬間には、足をもつれさせた弥二郎が顔面から地面に突っ込んでいる。
その傍らに、あの日と同じ一柄の扇子がふわりと舞い落ちた。
「さぁみんな、たっぷりお灸据えてやっとくれ!」
「おぅ、任しときなっお蘭ちゃん」
「わーい、くすぐっちゃえ!」
「やっ、やめてくれぃ! おいらが悪かった~~! うひゃひゃひゃひゃ!!」
人間、痛い苦しいにはある程度耐性があるが、かゆいのだけは無理である。
放蕩亭主もついに改心し、騒動は今度こそ決着をみるのであった――。
「あんたもちったぁ様になってきたじゃないか」
お役御免と木戸をくぐったところを、思わぬ声に呼び止められた。
歯に衣着せぬ物言いは相変わらず。蘭は扇子を口元に添え、艶っぽくこちらの耳元へ唇を寄せてくると。
「あん時ゃ、『初めてです』って顔して震えてたくせにさぁ…」
意味ありげな囁きに、往来を行く者たちがギョッとして振り返る。昼日中から、身分の異なる若い二人が長屋の一室に籠ってすることといえば。
「なっ…、何を申す! 左様なこと、拙者未だ身に覚えが…!」
狼狽し飛びずさる清四郎に、蘭が盛大にふき出した。
「ぷはっ。なぁに焦ってんのさ、捕り物の話に決まってんだろ!」
「~~~! そなた、からかうのも大概に……」
侍相手に命知らずとはこのことだ。更なる問答は身の破滅、いや、ある意味すでに大暴露している。
「お蘭、とかいったか。拙者は南町の定町廻り、矢上清四郎だ。以後見知り置け!」
言い捨てるように木戸をくぐりかけたが――ふと、清四郎はある疑問に気づきつぶやいていた。
「それにしても、あの地道な商いで有名な備前屋が、まさか裏で賭場を仕切っておるとは…。弥二郎の証言があろうと、にわかには信じがたい」
「………」
細められた蘭の瞳が、ほんの一瞬鋭く輝く。
「まぁ、そなたには関わりのないことだがな」
失礼する、と背を向けたまま言うと、往来の雑踏の中へと消えていった。
と、入れ替わるように、道の逆方向から大音量の声が近づいてくる。
「てーへんだ、てーへんだ! 事件ッス、姐御さま!」
岡っ引きばりに捲し立てるのは、先日日本橋で浪人と死闘を繰り広げた少女、なな。歳は十三。
菜の花色の小袖姿は健在だが、今日はその裾をはしょり、『早耳屋』の屋号入りの羽織を着込んでいる。頭には角折りの手ぬぐい。瓦版売りの仕事帰りだ。
「――備前屋の件かい?」
「ありゃ、情報早いッスね。さっすが姐御さま♪」
頬を紅潮させ、蘭の身体に擦り寄る。まるで猫だ。
「表向きは、江戸城外壁修繕の差配まで執り行うまじめな材木問屋。でも裏の顔は、ごろつきを雇って数々の賭場を牛耳る大悪党ッスよ」
人差し指を立て、声を潜める。
「しかも、イカサマ付きの――」
「ふん、面白い」
蘭の瞳が、またも妖しく煌めいた。新しいエモノを前にした、血肉を求める獣のように。
「ちょうど今宵は満月だ…。久方ぶりのお勤めといこうじゃないか!」
時を置かずして、お江戸に住まう数名の娘たちが、忍びいろは(暗号)で記された矢文を受け取る。
ある者は、日本橋に面した茶屋の炊事場にて。
「あら、任務ですわね」
ある者は、浅草寺の仲見世の一角にて。
「腕が鳴るのです♪」
またある者は、神田明神の社務所にて。
「…御意のままに」
『花房組』――八百八町に息づく蕾たちが一斉に花開くとき、それは新たなる伝説の幕開けとなる。
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