プリンセス・コンプレックス

プリンセス・コンプレックス

 

 私は決して可愛い女じゃない。
 顔だって並以下だし、体型は太り気味、そのくせ胸は小さいから、スタイルはまるでドラム缶のよう。もちろん夏になったってキャミソールなんか着られないし、冬になれば着太りで丸みはさらに増すばかり。ダイエットもきりはなく試してはみたけれど、その度にリバウンドして、体重は増えつづける一方。こんな悪循環を小学生の頃からずーっと繰り返してきた私も、気がつけばすでにお年頃、花の二十歳になっている。

 大方の皆様が予想されるとおり、私はこの歳まで、男にもてたためしがなかった。男に甘やかされず育った女は、やがてこの世の全ての男に対し果てしない憎悪を抱くようになる。小・中学生の頃の私は、クラスの一部の友達とともに漫画やテレビアニメに熱中し、そこに登場するかっこいい男の子キャラにしきりにハートマークを飛ばしているような奴だった。周りからは『オタク』と白い目を向けられ、性格もことごとく捻じ曲がっていったのは想像に難くないだろう。

 そんな私が見つけた趣味は、何を隠そう、少女小説を書くことだった。大概の女の子なら小学生のころに一度は書店で手に取ったことがあるだろうジャンル。思春期の少女の一人称で描かれる、果てしなく自己完結型の娯楽小説である。唯一得意だった国語の能力を生かし、私は中・高時代を小説の執筆に明け暮れた。

 文芸部は私の青春だった。魔法の指で激打されるキーボード。そこに織り成される物語は、いつだって大甘のラブストーリーだ。主人公は平凡な女の子。そしてお相手役の男の子は、かっこよくて情熱的で非の打ち所がない王子様。女子高に入ってますます『野郎ども』との接点を失った私は、自分の中の男に対する感覚が少しずつ標準からずれてきていることにも、もはや何の抵抗も感じてはいなかった。

 そして現在、私は都内のとある女子大に通っている。女ばかりの学生生活は、味を占めるとそう簡単にはやめられない。その上文芸学部文芸学科なんてところに所属していると、もう周りはいわゆる『そういう系』の女の子たちで埋め尽くされて、現実の男なんてこの世にいてもいなくても構わないような心境に骨の瑞まで染められてしまう。

 水島瑠璃二十歳、彼氏いない歴二十年。けれどなんの奇跡か、こんな私にもついに春が訪れた。三ヶ月前、生まれて初めて、彼氏と呼べる相手ができたのである。

 彼の名前は、坂吹龍哉(たつや)。うちの女子大から地下鉄で二駅の郊外にある、情報システム系専門学校の二年生。人数合わせで参加させられた合コンで偶然知り合った相手だ。

 だいたい合コンなんていうものは、私みたいな場違いな奴は引き立て役とかダシに使われるのが関の山なのだから、普段は誘われたって絶対参加なんかしない。だけどその日は飲みたい気分だったし、すぐに帰ればいいくらいの気持ちでいた。

 けれど運命のいたずらとは本人の意思とは全く関わりのないところで展開されるもので、私は遅れて会場にやってきた龍哉と、その後の数回のデートの末、どうにか付き合うところまでこぎつけたのだった。

 龍哉はその攻撃的なイメージの名前とは裏腹に、見るからにひ弱そうな男だった。理系学生の典型というか、ひょろひょろと背ばかり高く色白で、私と同様合コンの引き立て役にはもってこいの風貌だ。けれど私にしては、これでもきっと勿体無いくらいの相手なのだろう。引き立て役同士、同情が愛情に変わったのだということにしておけばよい。…そんなアホな話、未だかつて聞いたこともないけれど。


「瑠璃、明日の午後、空いてる?」

 突然龍哉が言い出したとき、私は目の前のテリヤキバーガーに向かってゴジラのような大口を開けているところだった。

 毎週土曜日の昼、龍哉と私は私の大学の近くのファーストフード店で待ち合わせ、一緒に昼食をとることにしている。その日も例外なくいつものセットメニューをテイクアウトして、近くの公園の噴水のへりに並んで腰を落ち着けていた。

 二、三秒置いて視線だけ上げてみると、龍哉は待ちかねたようにバニラシェイクのストローを口から放した。

「実はさ、俺のガッコの友達が、みんなでカラオケにでも行かないかって」

 眼鏡の奥で、黒目がちの瞳が揺れる。しつこいようだが、龍哉は決してかっこいい男ではない。今時の若者みたいにセンスもよくないし、流行にもまるで無頓着だ。

 常々疑問に思うのだが、理系の男子学生というのは、なぜ一様にチェック柄のシャツばかりを好んで着るのだろう。おそらく彼らなりにこだわりがあるのだろうが、そのセンスは私の理解の粋を超えている。観察すればするほど欠点が露呈してきそうな気がして、私はそれとなく龍哉から視線を逸らす。

「誰が来んの? 合コンのときいた人たち?」
「うーん……いなかった人たち。奴らも彼女連れてくるって。瑠璃に会ってみたいってさ」
「……ふーん」

 私は途端に不機嫌になった。ダブルデート、トリプルデート、それが男同士の自分の女の品評会だってことくらい、私にははなからわかっている。龍哉はそういうところに鈍感すぎるのだ。それともしっかり気付いていながら、人の良さゆえに断りきれないのだろうか。

 私の勝手な妄想の中で、龍哉の友達の連れてくる女のイメージは果てしなく怪しげに膨らむ。トサカのように逆立てた金髪のウイッグに、耳にはゴールドの二連ピアス。ブランド物のリュックを腰の上で背負い、ピンヒールのサンダルを高らかに踏み鳴らした、骨と皮ばっかのスレンダーギャル。私がノコノコ出ていったところで、どのみち恥をかくのは龍哉の方だ。

「悪いけど、用事あるんだ。また今度にしてくんないかな」
「そっかー。残念だなー」

 本当に残念だと思っているのかいないのか、龍哉はまたほっぺたの内側を真空状態にしながらストローでシェイクを吸い上げる。その顔は見るに忍びなくて、私は目玉の位置を動かした。

 現実というのは往々にして残酷で、私がこれまで小説の中で描いてきた夢のような恋物語なんて、この世の中には決して存在しない。稀にあったとしても、そのチャンスは私の指をむなしくもすり抜けてゆくことだろう。

 王子様を待っていたって、私は決してお姫様にはなれない。人にはそれぞれ自分の分というものがある。可愛くない女の私は、同じように大してかっこよくもない龍哉とつきあい、いつかは龍哉かそうでないかはわからないけれど、それほど冴えないような男と結婚して、無難でそれ相応の一生を終えることになるんだろう。つまらないといえばつまらない。だけど、それ以上のものを望んだところで、結果はすでに目に見えている。

「…それじゃ、あたしそろそろ行くね」
「あ、うん」

 腰を上げた私に、夢から覚めたような顔で龍哉が答える。紙コップと包装紙を近くのくずかごに放り込むと、私は無言で振り返った。龍哉はまだ七割方入っているシェイクのコップを片手に、もう片方の手を私に向けて弱々しく振っている。

「またね」

 その声には答えずに、私は公園の中をバス停の方角に向かって歩き出した。――せめて分かれ道くらいまでは送ってほしいなんて、やっぱり贅沢なんだろうか。普通の女の特権にありつくなんて、私には到底無理な話なのだろうか。

 龍哉がいてもいなくても、私はバス停にたどり着ける。毎日通る道なのだから当たり前だ。でもそんな当たり前のことが、どうしても一人じゃできそうもないときが女にはある。

 女というのは一様に弱い。根っ子のところがロマンチストだからだ。だけど私は強い。強くなければ一人じゃここまで生きてこられなかった。

 きっと龍哉はまだあの公園のどこかで、喉が焼けつくような甘いシェイクを無心に吸い上げているのだろう。そう思うとなんだか急にむかっ腹が立ち、私はバス停の時刻表をスニーカーの底で思いきり蹴飛ばした。


 その夜、私はアパートの自室のデスクトップパソコンの前に座っていた。

 ここ数日は、私が一人暮らしなのをいいことに大学の友人が毎日誰かしら泊まりに来ては、騒がしい夜がつづいていた。だがさすがに土曜ともなると、皆彼氏とのデートやサークルの飲み会に忙しいのか、電話の一本だってかかってきやしない。

 けれどその沈黙は、今の私にはかえって有難かった。ずいぶん前から構想を練っていて文章化する暇がなかった作品を、今夜こそ活字としてパソコンに打ち込むことができるからだ。

 カリカリとかじるような音を立てて、ワープロソフトが起動する。白い画面と向き合う度に、私の心は真っさらに浄化されていく。この感覚に初めて捕らわれたのは中二の頃。今からもう六年も前のことだ。この白紙の上に、私は小説という幻想曲を描き出す。言葉は歌、キーボードは楽器。私が私を表現するための全てがここにある。書くことは、私が存在する証。書きつづける限り、私は私を見失わない。

 男にもてなかった私は、自然その欲求のはけ口を想像の世界の中に求めた。

 私の過去に執筆した、一作のファンタジー小説のヒロイン。生まれながらに類い稀なる美貌を持ち合わせた彼女は、厳しい試練の果て、ついに世界中の魅力的な騎士たち全てを自分の足元へと跪かせるための魔力を会得するのであった。騎士たちは彼女に生涯の忠誠を誓う。そして彼女を襲うあらゆる危険から、命をかけて彼女を護りぬこうとするのだった。

 傍から聞けばちゃんちゃら可笑しいストーリー。でもこの作品は、私の友人たちからはかなりの好評をもらった(もちろんお世辞が大半だとは思うけれど)。もてない私が描き出した理想の男像は、他のもてない女たちから見てもやはり理想であるらしい。

 現実の世界で満たされなかった分を、私は想像の世界の中で取り戻そうとしていた。それは呆れるほどに滑稽で、けれど何より愉しい遊びだった。少女小説のヒロインになることは、少女時代の私の夢だった。その夢の中では、ナマの男などというものはたったひとりだって必要なかった。

 思春期――一生涯で最も心の純粋な時期に差し掛かっていた私にとって、生身の『男』の発するむせ返るような異臭はいかにも生々しすぎたのだ。拒絶反応を起こした私が迷い込んだ秘密の森は、この清らかな空想の世界だった。そして私は、今もその森の中をひとり彷徨い歩いている。

 けれど私は知っている。人は想像の世界で永遠に生きつづけることなんてできない。いつかは現実を知り、自分の力じゃどうにもならないことがこの世には無数に存在するということを知る。

 私はキーボードをたたく手を止めた。龍哉の顔が、一瞬だけ脳裏をかすめた。私は龍哉が好きだ。つき合い始めて三ヶ月、ほんとはまだキスどころか手すら握ったこともない。優柔不断で軟弱な龍哉。彼からは男の臭いがしなかった。だから私は彼と付き合った。

 突然、バッグの中の携帯電話が鳴った。私は一息入れるつもりで、回転式の椅子から重い身体を持ち上げる。手探りで取り出したフリップ式の携帯のディスプレイには、見慣れた友人の名前が表示されていた。

「もしもし?」

『あっ瑠璃? …たし、和美だけど。――ね、…ま、平気?』

「え? 別に、かまわないけど」

 受話器越しの和美の声は、気のせいかほんの少し上ずっているようだった。時折声が途切れ途切れになるのは、彼女が今、どこか電波の届きづらい場所から電話をかけているからなのだろう。

 和美は私と同じ学科クラスの友人で、いろんな友達をとっかえひっかえ遊び回っているような女の子だった。

 けれど和美がすごいのは、彼女は決してただの軽薄な女ではないということ。ゼミのミーティングや仲間同士の飲み会では率先して場をまとめるなど、しっかりした一面もきちんと持ち合わせているところだ。

 地味でインドア系な私とは正反対の性格だが、中には気の合う部分もあり、入学時から親しくしている。

 けれど、そんな彼女の様子が今日はおかしい。何かをとても言いたげにしている割に、いざとなると言葉を濁し、慎重に単語を選んでいるようだった。

『…あのね瑠璃。まだ瑠璃には話してなかったけど…、あたし、実は龍哉くんと同じ学校の人と、少し前から付き合い始めたんだ。それでね……』

 和美の話はつまりこうだった。

 情報システムを学ぶ龍哉たちの専門学校では、学生全員が、学校のサーバー上に各々のホームページを作成し、管理することが必修課題とされている。龍哉はあの行動の鈍さから未だにページを立ち上げていないようだったけれど、すでに友人の何人かは着々と運営をつづけているらしい。

 和美も彼からページの存在を聞き、つい今しがた、たまたま寄ったインターネットカフェからなんの気なしにアクセスしてみたところだった。

 彼らのページの出来具合は、さすが専門分野だけあり素晴らしいものだった。けれどそんな中のあるひとつのページの内容が、和美にはどうしても気になって仕方ないというのだ。

『いいからとりあえず行ってみて。URL、瑠璃のパソコンの方に送っといたから。じゃあ、一度切るからね』

 そういって一方的に電話は途切れた。わけのわからない話だ。私はしばし呆然としたけれど、すぐに思い直すと、起動させたままだったパソコンの文章を保存し、メールソフトを起動させた。

 ここ一週間ほどチェックを怠っていたこともあって、全てのメールを受信し終わるまでに三十秒近くかかった。日付け順にソートされた受信トレイの中で、和美のメールは、大して重要でもないダイレクトメールや星占いのメルマガに押し潰されるようにいちばん底に追いやられていた。開封すると、そこにはたった一行、青文字に下線が引かれたホームページのURLが貼り付けられている。クリックすると、リンク先のウィンドウが開いた。

 それは確かに、龍哉の友人らしき男の学生の管理するページだった。メインである研究内容のコーナーを開いてみると、時おり龍哉が会話の中でこぼすシステム系の専門用語が羅列されていて、私には理解できない世界がそこに展開されていることがわかる。

 ホームページはそれ自体がひとつの独立した世界で、ネット上にはそれこそ無数の世界が存在している。私の想像上の世界に私以外の人間が踏み込むことができないように、ここにもまた私の踏み込むことのできない世界がある。

 他人の領域に踏み込んでそれを破壊するハッカーやクラッカーは、異世界からの侵略者と同じだ。以前、私の高校時代の友人の管理する掲示板が通りすがりのネットサーファーに荒らされて、壊滅状態に追いやられたことがあった。それはあたかも一国の興亡記を見るようで、スリルと怒りと呆れの気持ちにしばし心を奪われたものだった。

 けれど、客観的な視点から見ていたはずのそんな出来事が、今まさに自分の身に降りかかろうとしていることに、私は次の瞬間気づくことになる。なにげなくクリックしてみたメニューの中の『Novels』のボタンは、決して存在し得るはずのない世界への入り口だった。

 画面全体にびっしりと並んだ活字の山。それは私にとって見覚えのある文章だった。

「なに、これ……」

 悪夢のような光景が広がっていた。

 そこに掲載されている文章は、間違いなく私が過去に執筆した作品だった。テレビの特撮番組からアイデアを得た、勧善懲悪のヒーロー物。プロテクターに身を包んだ正義の戦士たちが世界の平和を守るために戦うという、果てしなく陳腐なアクション小説である。

 今この瞬間、私の知らないところで、私の作品が、一般に向けて公開されている。明らかに著作権を害する行為だ。けれど、それだけならまだましだった。なぜなら、そのストーリーは無残にも捻じ曲げられ、さらに所々には、私が想像すらしたことのない生々しい性描写が、山のように加筆されているのである。

 男たちの手によって蹂躙され、辱めを受けるヒロイン。そして、悪夢のようなその光景を目の当たりにしながらもむざむざと敵の計略に嵌り、ついには戦意を失い投降するヒーロー。それはもはや、私の描く理想とする男の姿ではなかった。私の世界のどこにも、そのような男は存在しなかった。いや、存在することすら許されなかったのだ。

 頭の上から泥水を浴びせられたような仕打ちに、私は自分の世界が汚されていく感覚を覚えた。

 そして、更なる発見が私を打ちのめす。

 登場人物の、ヒロインとその相手役のヒーロー。その名前が、私が名づけたのとは別の名前に勝手に置き換えられていたのだ。

『ルリ』
『タツヤ』

「……………」

 ――瑠璃、龍哉――

 このときの私の気持ちを、一体どんな言葉で表現したらいいのだろう。曲りなりにも文章を書きつづけてきた私にとって、それは容易いことのはずだった。けれど、今は違う。言葉など見つからなかった。何も考えられなかった。目の前の光景が現実に起こっていることだなんて、認めることが怖かった。

 再び携帯が鳴り、私を現実に呼び戻す。震える指で緑のボタンを押すと、和美の声が聞こえた。

『見た? ――瑠璃、あれ、あんたの小説じゃない。そうでしょ、前に読ませてもらったことあったよね?』
「……うん」

『龍哉くんから、明日のカラオケの誘いあったでしょう。誘ってきたの、そのページ作ってる男たちよ。瑠璃、行っちゃだめだよ、絶対。あいつら、壊れてるよ。ほんとバカにしてる。これ以上関わっちゃだめよ』
「…………」

 私の呼吸は震えていた。それが彼らへの怒りからなのか、改めて認識させられた『男』というものへの嫌悪感のせいなのか、それとも単なる惨めさからくるものなのか、私にはわからなかった。ただ、混乱していた。温かいものと冷たいものが入り混じり、心の中を渦まいている。まるで湿った空気をたっぷりと運んでくる、夕立の後の不愉快な風みたいに。

『…とにかく、よく考えてみて。これからのこと。あたしも彼に、今すぐこのページを閉鎖させるように言っておくから』
「……うん。ありがとう、和美」

『気をしっかり持ちなよ。あたし、月曜にゼミの発表入ってるから、しばらくは連絡できなくなるけど…それ終わったらすぐにまた電話するから……』

 和美の声は終始優しかった。

 けれど、電話を終えて一人の世界に戻ってみると、ふとある恐ろしい考えが私の脳裏をじわじわと侵食してくるのがわかる。

 和美自身は、私の小説のことを、一体どのように思っているのだろう――。

 和美は美人でしっかり者で、当然男にももてる。私みたいに空想の世界に浸らなくたって、この現実の世界にいながら、男たちの甘やかしを思う存分享受することができる。そんな和美は、今まで私をどんな目で見ていたのだろうか。

 いや、友達思いの和美は、それでも私に電話をかけてきてくれた。けれど他の人たちは? 呆れながら、馬鹿にしながら、私の作品を読んでいたのだろうか。もてない女の自己満足だと、現実の男を知らない哀れなやつだと。だから、教えてやろうと思った? 現実を、生々しい人間の本性を、こうした荒っぽい手段で私に直視させようとした? それはもしかしたら、彼らなりの良心というやつなのだろうか?

 膨れ上がっていた創作意欲が、一気にしぼんでいくのを私は感じた。窓の外の宵闇と生ぬるい夜気が、急に濃度を増して私の身体にのしかかる。それは果てしなく重く冷ややかで、このまま私のすべてを支配していきそうなおぞましい感覚だった。

 つけっ放しのパソコンを強制終了させると、青空色の壁紙が、一気に闇の色へと暗転する。それは今の私の心境を端的に表しているようで、困惑する心を更に乱した。


 それから二日後、あのページは忽然とウェブ上から姿を消していた。和美は忙しい中でも、私との約束をしっかりと守ってくれていたのだ。

 龍哉にどころか近しい友人たち以外には全く読んでもらったことのない私の小説が、一体どんな過程を経て龍哉の友人たちの手に渡ったのか。それは結局わからず仕舞いだった。あれ以来龍哉には会っていないし、あえてこちらから連絡をとろうとも思わない。今までずっとそうだったから、特別何かが変わったわけではない。

 翌日の火曜の午後、和美から外出の誘いがあった。私との夕食ついでに秋物の服を見に行きたいという彼女は、男なら誰もが振り向くほどのスタイル抜群のスレンダー美女だ。

 私は普段、服を買うとき、友達とつるんでウィンドウショッピングなどということはほとんどしない。もし試着室に持ち込んだ服のサイズが合わずにボタンやチャックが閉まらないなどの窮地に陥った場合、恥をかくのが目に見えているからだ。一緒に買い物に行ってひとりだけ何も買わないのも白ける原因になるし、それならもともと断った方が友情にひびが入らずに済む。

 けれど、今日の和美の誘いの理由は、おそらく引きこもりがちな私を部屋の外へと連れ出す口実だったのだろう。それがわかっていたから、私はこうして慣れない洋服売り場にやってきた。

 しかし実際店の前まできて見れば、女というのは豹変するものだ。和美は先ほどから、彼女の御用達である『INED』のインショップで、ベージュの生地にバストラインのオフホワイトのリボンが印象的な今年の秋の新作ワンピースに見入っている。決して彼女に悪気があるわけではなく、私の落ち込んでいる理由を忘れ去っているわけでもない。なぜならそのワンピースは、私から見ても、確かに素敵な代物だったからだ。

 私は和美を横目で見ながら、もし和美が私の小説の主人公だったら、などという奇妙な想像を膨らませていた。

 ボディラインを浮かび上がらせるタイトのワンピが最高にきまる、今時の美人女子大生。ゼミにサークルにバイトに忙しく、友人たちから引っ張りだこの理想的なヒロイン。けれどそれは、決して私の想像の中だけのことではなかった。和美は実際素敵な女の子だった。私が稚拙な想像力と文章でわざわざ加筆などしなくても、和美はこの現実の世界で、すでにいっぱしのヒロインだった。

 ――そしてそのドラマが起こったのは、私たちが買い物を終えて、近くのレストランに足を運ぼうとデパートから出てきたときのことだった。

「あれっ、圭介…」

 驚いたような和美の声に、私は彼女の顔を見上げた。

 夕暮れ時の街は、微熱色の斜光と艶かしいネオンにあおられて、すでに異質な雰囲気をかもし出し始めている。窮屈な制服から夜の装いに着がえた学生たちや仕事帰りの大人たちの吐息で、街の空気はますます濃度を増している。

 固定されたままの和美の視線の先を追ってみると、今私たちが出てきたばかりのデパートの店先の路地で、数人の学生風の男たちがたむろしていた。透き通るような金髪にどこかのサーフブランドのシャツをそれぞれ今風に着こなして、乱反射するシルバーのブレスレットが行き交う人々の目を引き付けては解放する。

 彼らはさっきから、路肩のコンクリートにべったりと座り込んだ高校生らしき女の子グループを取り囲んで、しきりに声をかけている様子だった。語尾をだらしなく伸ばした甲高い女の声に、時折ひっくり返るような笑いが混じる。和美の視線は動かない。私は胸騒ぎを覚えた。

 そしてその予感は的中した。彼らのうちのひとりの男がふとこちらを振り返ると、なにやら「まずい」といった様子でにわかに表情を強ばらせたのだ。

「和美…」

 唇からこぼれた声は、確かに和美の名を呼んだ。呼び慣れた風の声音から、ふたりの関係が単なる友人以上のものであることに、私はすぐに気づかされた。街の雑音が、急に遠い世界のものに感じられた。

「…行こう」

 和美は突然私の腕を引っ張って、その場から立ち去ろうとした。けれど。

「待てよ、和美!」

 それはまるでドラマのワンシーンのようだった。男の腕が、和美のやわらかな肩を力強く押さえにかかる。けれど和美はそれを叩き落すように振り払うと、私の身体を強引に引きずりながら、物も言わずに雑踏の中を直進していく。

 二、三歩歩みかけた男は、やがて諦めたように歩を止めた。名残惜しそうに私たちの――和美の後姿を見つめながら、呆然と歩道の真ん中に立ち尽くしている。私は時折振り返りながら、夕焼けの中で突如巻き起こされたドラマの余韻に、いつまでもいつまでもその身を漂わせていた。

 幾分人通りの途切れた道まで来て、和美はやっと足を止めた。同時に私の腕も縛を解かれ自由になる。和美は振り向くと、照れるように笑った。

「ごめんね、瑠璃。変なところ見せちゃって」
「いいよ。和美こそ、……その、…気まずかったでしょう」

 控え目に見上げる私に、和美は吐息とともに大きく笑うと、近くのベンチに荷物ごと身体を投げ出す。私は和美の横に腰を下ろした。和美の視線は私には見えないどこかを見ているように、焦点が微妙にぼやけている。

「本当はさ、わかってたんだ。ああいう男だってこと」
「………」

「ちゃらちゃらしてて、女と見ればすぐに甘えたような声出して…。けっこういいところもあるんだけどね。でも…、もう、潮時かな」

 私は何も答えられなかった。呟く和美の瞳は果てしなく澄んで、私はその輝きに目を奪われていた。

 和美は、輝いてる。くさい言葉かもしれないけど、今の和美は、宝石を散りばめたドレスを纏ったみたいに最高に綺麗だった。けれどその輝きの原因が、幾多の恋を経験してきた彼女が身につけた彼女なりの『妥協』なのだということに、私はおぼろげながらも気づきはじめていた。

「ほんっといい加減よね…。……龍哉くんだってそうよ。瑠璃にあんな思いさせといて、あの人は一体何してくれたっていうのよ?」

 にわかに鋭くなった和美の口調に、私は息を呑んだ。

 確かに、龍哉があのページのことをおそらくすでに知っていたのだろうということは、薄々予想がついていた。けれど不思議なことに、私は龍哉に対してそれほど怒りの感情を覚えてはいないことに、今初めて気づいた。

 それが何故なのか、混乱した頭の中でも私にははっきりとわかる気がした。私は自分より龍哉より、自分の作品の方が大切だった。私や龍哉の名が傷つけられたことより、私は私の世界が傷つけられたことの方が悔しかった。

「龍哉には、あの人たちを止めさせることなんてできなかったよ」

 私は苦笑まじりで言った。

「それでいいの、瑠璃!? あんまりじゃない。他人のあたしだって、文句のひとつも言ってやらなきゃ気が済まないくらいなのに」
「いいんだよ、別に」
「どうしてよ!?」

 和美の目はどこまでも真剣だった。本心から私のことを心配してくれている。けれど。その心のどこかに、彼女自身も気づいていない私への哀れみの気持ちが存在していることもまた、紛れもない事実なのだ。

「龍哉は、ああいう奴だから」
「………」

「わかってて付き合ってんだもん。最初から、期待なんかしてないよ」
「瑠璃……」

 これが、私なりの『妥協』だった。和美は敏感にそれを感じ取ったように、悲しげに表情を曇らせた。

 慰めの言葉なんて、これ以上要らない。彼氏も友達もとっかえひっかえできる人気者の和美とは、私は最初から住む世界が違う。和美の常識が私の常識に当てはまらないのは、ごく当然のことなのだ。

 誰ひとり、私をちやほやしてなんかくれなかった。私に目を向ける奴なんかいなかった。悔しかった。腹立たしかった。男を恨んで、でも、本当は傍にいてほしかった。

 他の誰よりも、私は恋に、小説のヒロインに憧れていた。和美は一生の内に何度も経験するかもしれない、けれど私には決して訪れることのないドラマ。それを想像しひとつの世界として創り上げることは、孤独な私の唯一の愉しみだった。

「大丈夫。どんなに彼氏が弱っちいやつだとしても、あたしには和美っていう頼りがいのある親友がいるから」

 その言葉に偽りはなかった。私は和美という友人がいてくれたことを心から嬉しく思っていた。妬みや憧れを全て取り去っても、私の中に和美はちゃんと存在しつづけるだろう。

 けれど、今日目の前で起こったドラマの中で、私は完璧に脇役だった。そして明らかに、ヒロインである和美の引き立て役だった。それが現実の世界での私の役回り。それ以上を望むなんて、とてもじゃないけれど贅沢すぎる。

 そう、私がヒロインになれる場所はただひとつ。私の想像の中だけなのだ。


 和美と別れて部屋に戻ると、私はカーペットの上にへたり込み、CD‐Rの入った透明なケースを両手に握りしめた。

 薄っぺらいCD‐Rの中には、私がこの六年間書きつづけてきた三十数作の作品のバックアップが保存されている。この中には、私の青春が詰まっている。私の想いの全てが詰め込まれている。

 なのに今、無性に惨めな気持ちになるのは何故だろう。今すぐベランダの入り口を開け放って、この想いをケースごとコンクリートの地面に叩きつけてやりたいのは何故なのだろう。

 私が描きつづけてきた空想の世界。それはすべて意味のないものだったのだろうか。掛け替えのない趣味としてつづけてきた執筆活動も、鬱憤を晴らすためだけのやつ当たり的な行為に過ぎなかったのだろうか。満たされない現実から目を逸らすための、狡猾な遊びに過ぎなかったのか。

 そして、思う。

 もしも龍哉が現実に私の理想とするような男だったら、龍哉は私を助けてくれただろうか? もしも私が和美のようなヒロインになれたら、龍哉は私だけのヒーローになってくれるのだろうか? 誰かれ構わず甘い言葉をささやく今時の軽薄な男たちのようではなく、私のためだけに存在する、完全無欠の王子様として。

 ――そこまで考えたとき――。

 私の脳裏に突然、私のために奴らの胸ぐらにつかみかかって拳を振り上げる龍哉の姿が浮かび上がった。私ははっと息を呑み、無機質なCDケースを心臓の上にきつくきつく押し当てた。

 その瞬間、龍哉は間違いなく、私の世界の住人になっていた。さらりと揺れる漆黒の髪、黒目がちな心の強そうな瞳。想像の中で果てしなく美化された龍哉の姿は、もはや現実の世界のあのひ弱そうな龍哉の影を完全に呑み込んでしまっていた。性悪な友人たちを次々と殴り飛ばし、改心させていく龍哉。そして、勝者となった彼の目の前に瑠璃色のドレスで現れた姫君は、他でもない、この私だった。龍哉は私を軽々と横抱きに抱き上げ、そして、私の桜色の頬にそっとキスをする。その時私は、世界でいちばん幸せな女になっていた――。

 私は思わず吹き出してしまった。笑いと同時に、両目から透明な水が落ちた。その水は枯れることを知らず、昏々と溢れてきた。私は笑った。心の底から笑った。そして、やっと気づいたのだ。私が小説を書きつづけてきた本当の理由に。

 今までは、ただ男に優しくされなかった鬱憤を晴らすためなのだろうと思っていた。けれど違った。私は、私を守るために小説を書きつづけてきたのだ。いずれ訪れるはずだったこんな瞬間――現実の厳しさに改めて直面した時――に自分の心を守るために、私は空想の世界を描きつづけてきたのだ。

 思春期を過ぎ、初めて男と付き合い、自分の中の理想の高さと現実との差を思い知らされた。そして、人間に生まれながらに与えられる現実が、人によってその上限が異なるということ、そして私に与えられた現実は、この世で最下層の、最低レベルのものなのだということに気づいた。その現実に押し潰されそうになる心を守るために、私にはどうしても逃げ場が必要だった。そしてついには帰り道を見失った。

 空想の世界とは、現実で高きを望めない者だけが逃げ込むことを許された場所であり、高い現実を持っている者がその世界を破壊することは、決してやってはならない行為だった。だけど彼らはその禁忌を破ってしまった。破ったところで彼らに天罰が下るというわけじゃない。彼らはさらに調子づき、優越感の高みへと上り詰めていくだろう。そして貶められた私は、逆に、どこまでもどこまでも深い闇の中を堕ちていく。でもその暗闇の先には、きっと私がこれまで想像したこともないもっと素敵な理想の世界が待ち構えている。一度堕ちたら二度と這い上がることのできない、屈折した心理のもとに織り成される澱みきった空想の世界が。

 私が到達したその世界で、龍哉は、今まで私が描きつづけてきたどんな小説のヒーローよりも素敵な男になっていた。そして、その想像だけで、私は自分の心が少しずつだけれど満たされてきていることに気づいた。現実にいる龍哉への苛立ちも、私を貶めた龍哉の友人への怒りも、いつの間にか浄化されてしまっていることに気づいた。そして――私は、自分の心がすでに戻れないところにまで来てしまっていることに、今改めて気付かされるのだった。

 ベランダへとつづく窓ガラスの向こうでかすかな物音がしたような気がして、私は顔を上げた。

 その音が何を意味するのか、だいたい見当はついていた。うんともすんとも言わない携帯電話には目もくれず、私は床から立ち上がる。CDケースを傍らのテーブルに置くと、私はカーテンと窓を開け放った。

 生ぬるい夜気の流れ込むベランダに足を踏み出し、私は必死に目を凝らす。

 龍哉は相変わらずさえない顔をして、街灯の光の中に立っていた。くすんだような光の中で、頼りなげな彼の姿は消えてなくなりそうに儚く見える。私はなぜか切なくなった。

 龍哉は薄く微笑むと、大きくも小さくもない声で言った。

「瑠璃。今日、圭介たちに会ったんだって?」
「…うん」

「彼女には、結局ふられたみたいだよ。たぶん一緒にいたのは瑠璃じゃないかって、あいつ言ってたんだけど…」

 あのとき和美は、私の名を一度だって呼びはしなかった。それはきっと彼女の配慮によるものだった。けれど彼の方は、私の容姿をひと目見ただけで、あの小説を書いた女だと直感的に悟ったのかも知れない。そんな判断を下した圭介というその人もその人だし、それを本人である私に向かって遠慮もなしに口にする龍哉も龍哉だ。

 けれど、こんな私の気持ちなど、龍哉には永遠にわからない。わかるわけがないし、特別わかってほしいとも、今はもう思わない。

「…瑠璃。俺……」

 言いかけた龍哉は、そこで言葉を濁した。私はほんの少し笑った。その後につづく言葉を、私は最初から期待などしてはいなかった。龍哉が謝る理由なんて、本当はひとつだってない。悪いのは私の方なのだ。

 もしも私が和美のように可愛い女だったら、自分の描く小説の内容など気にせず、堂々と人前に姿を見せることができただろう。けれど、そんなことは不可能だ。私が彼女として登場したら、龍哉の立場を上げるどころか、かえって下げる原因になる。謝らなくていい。悪いのは、可愛くない私。もしも龍哉に非があるとしたら、それは私のような女しか彼女にすることができないということだけだ。

「もう、いいよ」

 私は静かに呟いた。そして、なぜだか今までよりちょっとだけ穏やかな気分になっている自分に気づいた。『人生それなりに』。そんな言葉も、今なら受け入れられるような気がした。

 和美や龍哉の友人たちが羨ましくなくなったわけでは決してない。私にはない恵まれた現実を持っている人間たちを妬む気持ちが薄らいだわけじゃない。

 けれど私には、私だけの世界がある。永遠に私を受け入れてくれる、他の誰にも決して破壊し尽くすことなどできない世界が。

 今回みたいに、時には侵略者が現れて、理想で塗り固められた私の世界を破壊しようとすることもあるだろう。優しい人の同情が、逆に千の刃となって私の心を突き刺すこともあるだろう。またある時は、理想と現実とのギャップに戸惑い、自分の理想に自ら嫌悪感を覚えることだってあるだろう。けれど、私の心はずっとこの場所で育ってきた。そしてこれからも、私はここで生きつづける。私が私を守るために。私が私でいるために。

「話、それだけなんだ。わざわざ出てきてもらってごめんね」

 眼鏡の奥でかすかに微笑む瞳。暗闇の中を歩き出しかけた龍哉の背中に、私は思わず声をかける。

「ねぇっ…」

 『上がっていかない?』そんな言葉が喉元まで出かかった。もちろん今まで龍哉を夜中に部屋に上げたことなんてない。それが彼に全てを許す意味だと、私にはわかっていたからだ。

 けれど私の激情は、それとは別の強い気持ちに押し留められた。

 もう少し、このままでいたい気がした。龍哉と先へ進むのが怖いわけではない。けれど、私たちにはもう少し時間が必要な気がした。もっともっと、本当の意味で互いを好きだと言い合える関係になるために。そして龍哉は、きっと待っていてくれる。あの間の抜けた顔の下に秘められた、私にしか見えない想像上の彼の笑顔で。

 私の勝手な妄想に勘づいているのかいないのか、龍哉は軽く右手を上げた。

「またね、瑠璃」

 その声に、私は今度こそ答えた。まだ曖昧ではあるけれど、きっとこれからそれなりに変化を遂げていくのだろう、今の想いの全てを込めて。

「うん。…またね、龍哉」


 新しい現実がやってくる。

 数日後の学校の帰り道、私は久しぶりに自分から寄り道をした。向かう場所は、和美と出かけたおしゃれなデパートでもなければ、龍哉と過ごすいつものファーストフード店でもない。何のへんてつもない、大学の最寄の小さな書店である。

 レジへ向かう私の腕には、数冊の雑誌が抱えられている。その雑誌たちはどれも、タイトルの中に『オリジナル小説』『投稿小説』『作品募集』のいずれかの文字が含まれているものばかりだ。

 そして家に帰れば、親友の和美からの新しいメールが届いているだろう。ネットサーフィン中に見つけたというオンライン作家のための出版社のURLと、彼女の新しい恋の相手である医学生の『篤史』とのツーショット写真が。

 貶めるところまで貶められて、私の世界は以前より輝きを増したようだった。一度は枯れかけた創作意欲も、今は次から次へと溢れてくる。そして今の私は、自分の作品に大きな誇りを持っている。けなされてもいい。貶められたっていい。たとえ稚拙でもくだらなくても、これこそが私の文学。私にしか描き出すことのできない、大切な大切な想いなのだから。

 部屋に駆け込んでベランダの窓を大きく開け放つと、私は今日初めてデスクトップパソコンのディスプレイに視線を向けた。

 電源を切ったままのそこには、何も表示されてはいない。闇夜のように広がる黒い画面が、私の重くたるみきった肢体を寸分違わず鏡みたいに映し出すだけだ。

 月もない、星もない、漆黒の世界。けれど今、そっと伸ばした私の指によって、そこに新しい息吹が与えられる。電源が入り、パソコンが起動する。闇は青空色の壁紙に変わり、私の心に夜明けを告げる。

 そして私は今日も歌う。心の五線譜に敷き詰められた音符を。私は奏でる。私の世界にゆるやかな風を巻き起こす、新たなる恋の調べを。

 ――もう、迷いはしない。

 私が私でいつづける限り、私はきっと小説を書きつづけるだろう。それが自分の生きる意味を探す、里程標になると思うからだ。

〈了〉