大江戸伝説 葵小町〈前編〉
〈開幕 うわさの英雄・葵小町登場!〉
「御用だ! 御用だ!」
お江戸の夜に、無数の提灯の灯が浮かび上がる。
その光から逃れるように、ひとつの小さな影が、闇にまぎれて遁走していた。
「子ねずみ小僧、今日こそお縄につけぃ!」
時は子の下刻(午前一時頃)。呉服橋門内に設置されてまだ日も浅い江戸北町奉行所の、深夜の捕り物出役であった。
集団の先頭に立つ中年の与力が、馬上から配下の同心たちを叱咤する。しかしその甲斐もなく、盗っ人の影は器用に人家の屋根を次々と飛び移り、すぐに同心たちの視界から消え去ってしまった。
幾手にも分かれて追ってくる捕り手たちの目をうまく交わして、重い金子の箱を担いだ子ねずみ小僧は、今宵もまんまと逃げおおせたかのように見えた――。
その時。
「待ちなっ!」
闇の中から、突如声が響いた。
振り仰いだ視線の先に映る、微かな人影。
(お…女!?)
子ねずみ小僧のいる場所から見て少しばかり高い屋根の上。
そこには、闇夜に鮮やかに浮かび上がる桜を描いた振袖に身を包み、純白の打ち掛けを頭上から羽織った、ひとりの女の姿があったのだ。
予期せぬ敵の出現に、子ねずみ小僧は愕然となる。
「子ねずみ小僧! このあたしが相手だよっ!」
声が響いたその瞬間――子ねずみ小僧は我が目を疑わずにはいられなかった。
女の体は、まるで春の夜風のように空を舞っていた。ただでさえ身動きの取りづらい振袖姿でこのような俊敏な動きを取るなど、常人の技とは思えない。
女は上空でひらりと身を翻すと、子ねずみ小僧の前方五尺に音もなく降り立った。
「なっ、何だてめえは! そこをどきやがれっ」
「おあいにくさま。あんたをこのまま見逃すわけにはいかないんでね」
女の顔の半分までをも覆った純白の打ち掛けの下で、両の瞳がにやりと笑う。その相貌は、闇の中で、不思議なほどの妖艶さをかもし出していた。
一瞬その雰囲気に呑み込まれかけた子ねずみ小僧は、しかしなんとか踏みとどまった。
「どかねえのなら、斬るっ!」
言うより速く、懐から取り出した匕首(あいくち)を抜く。白刃をかざして女に斬りかかった。
しかし女はそのひと太刀をひらりと交わすと、逆に子ねずみ小僧の右腕を背中にねじり上げた。
「ひっ…!?」
手から匕首を叩き落され、完全に自由を奪われる。そのあまりの俊敏さに、子ねずみ小僧は寒気すら覚えた。
「先代義賊・ねずみ小僧の名を騙っての悪徳千万、天下のご公儀が捨て置くとでもお思いかい?」
「公儀…!? てめえ、一体なにもんだ?」
押さえられたままの右手の痛みを堪えながら、子ねずみ小僧はなんとか問うた。
女はクッと喉を鳴らす。背中側から子ねずみ小僧の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「まだわからないのかい? それじゃあ教えてやろうじゃないか。――その目でしかと見るがいい!」
純白の打ち掛けが、闇に舞う。
見目形の整った顔があらわになる。
そして――
女の纏う桜色の振袖の胸元に、子ねずみ小僧は見てはいけない印籠(いんろう)を見る。
「三つ葉葵…!? てめえ、まさかっ」
「そうさ、そのまさかだよ!
天に代わって悪を討つ! 三代将軍徳川家光さま直臣・女ざむらい『葵小町』たぁ、このあたしのことさ!」
まだ夜も明けきらぬお江戸の街中で、騒々しいかわら版売りが、今朝いちばんの速報を伝えている。
「天下を揺るがす大悪党『子ねずみ小僧』が、昨晩ついにお縄になったよ! その上捕まえたのは、これまた今やお江戸で噂の三つ葉葵の女ざむらい『葵小町』だってぇから驚きだ。
ねずみ小僧の二代目を騙った『子ねずみ小僧』と、その正体は未だに謎に包まれたままの『葵小町』との宿命の対決! こっから先は、このかわら版に余すとこなく書いてあるよ! さあさ、どちらさんも、買った、買ったぁ!」
時を遡ること五年。
徳川家二代将軍・秀忠は、幕閣内にある重大な役職を設けた。
『将軍家隠れご意見番』――
後に副将軍水戸徳川光圀公の進言により公に組織化されることとなる、将軍家直々の密偵制度だ。
そもそもこの制度が定められた背景には、戦国時代の武家中心的な偏った政治を避け、江戸町民全ての世相を政道に取り入れるという、重要な意図が含まれていた。
そしてご意見番の中でも、将軍家より三つ葉葵の印籠『御意簡牘』(ぎょいかんとく)を授かり、唯一独立して行動し将軍直々の命によってのみ動く忍び――
それが、『葵』だ。
ご意見番・荒木家では、一家の子どもたちを隠れ里に送り、生まれた頃から草の者(忍び)となるべく教育した。そしてその中で最も有望であると認められたひとりを、将来自分が仕えることとなる若君のもとに、幼少時から共に住まわせた。やがて若君が将軍の座につくと同時に、そのお膝元を離れて、本来の忍びとしての行動を開始する。
草の中でも、いわばエリート中のエリート。
しかし現在――そんな大役を担っているのが、まだほんの十七歳の娘であるということを知っているのは、お江戸は広しといえども、ほんの限られた者たちだけであるのは言うまでもない。
そして城下の庶民たちは、彼女を、お江戸を守る謎の英雄として崇めた。
世に言う『葵小町』――彼女こそが、将軍家光を影で支える『葵』、その人なのだ。
〈第一幕 女忍びは昼あんどん?〉
咲き乱れる満開の桜の中にそびえ建つ、五重の天守閣。
日本の城郭史の上で有数の高層建築となった将軍徳川家の居城・江戸城の天守は、彼の信長の安土城や秀吉の大阪城をもはるかに凌ぐ勢いであり、この後明暦の大火により焼失するまでの約五十年の間、江戸の世を治める将軍家の絶対的な権力の象徴として、その姿を天下に誇示していた。
天守を含む本丸は城の中枢であり、城主の館もここに位置している。
現在の江戸城城主――時の天下人・三代将軍徳川家光公のもとを葵が訪れたのは、春も盛りの、ある日のことだった。
「との、お久しゅうござりまする」
家光のおわす上座から一段下がった座敷の間に、あでやかな桜色の振袖に身を包んだ葵の姿があった。
「うむ。そなたも変わりなくてなによりじゃ」
家光は心底嬉しそうに微笑むと、平伏したままの葵に言葉をかける。
齢十九という、若き将軍家光は、幼名を竹千代君といい、葵とはいわゆる幼なじみだった。
将軍家によって選ばれた『葵』は、幼少時を、将来仕えることになるだろう主君のもとで共に過ごすという習慣があることは前述の通りだが、それには、主君への忠義を早いうちから心に目覚めさせるためという大きな意図が込められていた。
葵は竹千代と共に、乳母であるお福――後の春日局――に育てられた。竹千代が元服して家光と名乗り、若くして将軍の座につくと同時に、葵も晴れて『葵』のお役についたのだった。
『葵』は、将軍の命によってのみ動く忍び。
天下人と腹心の部下、ふたりは切っても切れない間柄だ。
「『子ねずみ小僧』の一件、聞き及んでおるぞ。また派手にやったらしいのう」
「なにごとも、大きく派手なのがよい。それがとののご信条ではござりませんでしたか?」
すでに人払いはしてあるが、もし他の家臣が聞いたとしたらひっくり返るような返答(せりふ)を、少女は堂々と言ってのけた。
実際、こんな口をたたいたのが彼女以外の者だったとしたら、即刻無礼討ちにされてもなんの不思議もない。
家光はといえば、優しくその両の瞳を細めただけだった。
「されどな、葵。仕事を全て取り上げてしまっては、奉行所は昼あんどんになってしまうぞ?」
主君の言葉に、葵は思わず顔を上げた。
まだ幼く勝ち気げな顔立ちに、どこか妖しい色香のただよう、美しい少女だ。
「奉行所の威信に関わらないよう、手加減はしているつもりですわ。とのからの任務もご無沙汰で…このままでは、わたくしの方が昼あんどんになってしまいそう!」
ほんの少しすねたような口調。家光は、込み上げてくる笑みを必死で堪える。
この娘は、いつまで経っても変わらない。一見大人びては見えるが、中身はまるで子どものままで。
「城内に、闇が生まれた。あんどんの出番といったところか」
「との。任務にござりますか」
「――ただし、今回は命がけの任務になるやも知れぬ」
「!」
突然の命。しかし。
その言葉を聞いたとき、葵の瞳がいつにも増して鋭く輝くのを、家光は確かに見た。
「葵の命は、すでにとのにお預け申し上げております…」
家光も表情を改める。先ほどまでとは違う、それは主君としての顔。
「大奥へ潜入し、その内状を、探ってもらいたい」
〈第二幕 知られざる伏魔殿〉
大奥。
そこには、将軍様の奥方・側室と、そのもとに仕える大勢の奥女中や使用人が暮らしていて、その敷地は広大な江戸城本丸全体の約半分にものぼる。
『大奥三千の美女』と形容されるように、そこに仕える女中の数は千単位にものぼり、多いときには四千人以上が仕えていたという。
奥に仕える女中の身分は、公家・武家の娘から百姓の娘までと、さまざまである。そして、身分に関係なく出世は思いのまま。
女性の人権がまったく認められていなかった時代に、将軍までもが一目置くという『御年寄役筆頭』、つまり大奥の主にまでのぼり詰めることは、女性にとっていちばんのステイタスともいえた。
妻のもとを訪れる将軍様以外は決して立ち入ることのできない、男子禁制の女人館。
しかしその実態は――女たちのどす黒い陰謀渦巻く、知られざる伏魔殿なのであった。
葵は、御犬小供(おいぬこども)の係として仕えることになった。
御犬小供とは、大奥内での階級も下っ端の、いわゆる雑用係である。十五~二十三歳くらいの歳若き娘のお役であり、新入りは例外なくこの任に就かされた。いちばん動きがとりやすいのではないかという、お福の配慮によるものだった。
竹千代の乳母であり葵の育ての母でもあるお福は、大奥を創設した張本人であり、現在の御年寄役筆頭であった。そして今回家光に大奥の内状を進言したのも、他でもない、お福の判断だった。
他の女中たちに混じって、洗濯桶にぎっしりと詰め込まれたお白(肌着)を井戸水ですすぎながら。
葵は、家光の言葉を思い出していた。
『近頃、大奥内で、奉公の奥女中が立て続けに急死するという奇っ怪な事件が起こっておる。死因はいずれも心の臓の病ということになってはいるが、現場の状況から察するに、どうも合点がゆかぬのだ。大奥は男子禁制、葵が潜入し、その実情を探ってもらいたい』
――今回は、命がけの任務になるやも知れぬ――
「そこの新入り、なに、ぼうっと突っ立ってるんだい!?」
手を止めていた葵を目ざとく見つけ、御犬小供の先輩女中の怒鳴り声がふりかかった。すみません、と答えて再びお白に手をかけると、隣で同じように洗濯桶に向かっていた娘が、こっそり葵に話しかけてきた。
「あなた、気にしない方がいいわよ。新入りは、みぃんな目の敵にされるって決まってるんだから」
そちらを振り向く。そこにいるのは、笑顔がとても可愛い、葵と同い年くらいの娘だった。
「あたしは、お賀代。奥には一月前に上がったばかりなの。まだまだみんなの足を引っ張ってばかりで、困っちゃうのよ」
ぺろっと舌を出すお賀代。葵も思わず表情を緩めた。
周りの空気を一瞬にして明るくする、お賀代はそんな雰囲気をまとった娘だ。
「ね、あなたは?」
「あ…あたしは、『ともえ』よ」
「ともえちゃんね。これからよろしくね」
元気いっぱいのお賀代の言葉に、葵も笑顔で答えた。
「ええ、お賀代ちゃん。こちらこそよろしくね」
『ともえ』とは、葵が素性を隠すときに使っている仮の名前だ。
『葵』の語源・徳川の家紋『三つ葉葵』は、別名『葵巴』(あおいどもえ)とも呼ばれる。『ともえ』の由来はここにあった。
――なにはともあれ、葵は無事大奥への潜入に成功したのだ。
「きゃああ――っ! だっ、だれかっ! だれか来てっ!」
夜も更けた九ッ半(深夜一時頃)。御三の間の寝所から、甲高い女の悲鳴が響いた。
交代で大奥内の夜回りに出ていた葵は、薙刀(なぎなた)を抱えたまま、悲鳴のした部屋へと駆けつけた。
そこにあった場景は――
白目を見開き、布団の上に仰向けに転がった女の死体。
(なんてこと…! 調査にかかった昨日の今日に)
葵はやり場のない憤りに、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
隣で眠っていたらしい蒼白の顔色の若い女中が、震える声で叫ぶ。
「たった今、賊があっちへ逃げていったわ!」
女中の指し示す方向へと、葵は駆け出した。
やはり、一連の事件は病によるものなどではなかったのだ。
よく見ると、部屋の畳から廊下の方へと、点々と水を撒いたような跡が続いている。
それをたよりに跡を追ったが、水は途中で途切れており、賊の行方を確かめるのは不可能だった。
葵はひとまずごった返す現場に戻り、遺体の検死に移った。
詳しく調べているうちに、葵はある不審な点に気づいた。
(これは…?)
被害者の着物の襟元が、かすかに湿っているのだ。
(さっきの水の跡といい…。それにしても、何でこんな所が?)
その時、騒ぎを聞いてきた御錠口衆(常駐の警護役)の女中たちの声が響いた。
「そなた、何をしておる。お端下ごときの出る幕ではない、そこをどきなされ!」
無理やりその場から立ち退かされ、葵は仕方なく引き下がった。
まだ、早い。
この事件には、何か大きな裏がある。それを突き止めるためにも、今ここで皆に正体を明かすわけにはいかないのだ。
視線を上げると、人垣の向こうにお賀代の姿が見えた。葵は騒ぎから遠ざかると、人垣を掻き分けお賀代のいる場所までたどりついた。
「ともえちゃん! まただれかが!?」
お賀代は人垣越しに被害者の娘の姿を見ると、うっと口を押さえて目をそらした。
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「心の臓の病だなんて、うそばっかり! みんな、何者かに殺されたに決まってるわ。このひと月で、三人もの女中が亡くなってるのよ!」
叫ぶようなお賀代の声に、それまで言葉をなくしていた他の女中たちの間からも次々に恐怖のどよめきが生まれる。
「なんて恐ろしい…。だけど、逃げ出したくても、ここからはお上の許可がなくては出られないのよ」
「お賀代ちゃん…」
その時だった。
「何事じゃ、騒々しい」
葵たちの背後から、低い女の声が響いた。
振り返るとそこには、数人の女中を引き連れた、若いが風格のある美しい女の姿があった。
女の名は、清乃(きよの)。大奥を取り仕切る四人の女主人の中のひとりだ。筆頭であるお福が現在急務で不在のため、代わって女中たちを統括していると聞いている。
「清乃さま…」
それまでどよめいていた女中たちもみな途端に息を呑み、即座にその場に膝をつき平伏した。葵もそれに倣う。
女中頭の一人が顔を伏せたまま告げた。
「奥女中が、またひとり息を引き取りました。賊が目撃されたという知らせもあり、ただいま調べを」
お賀代など、もう感極まって嗚咽を上げている。
しかし。
清乃の言葉は、想像を絶するものだった。
「調べには及ばぬ。死因は心の臓の病に決まっておるわ」
「!?」
女中たちは皆我が耳を疑った。
「で、ですが清乃さま、ようやく賊の手がかりともいえるものが」
「黙れ!」
まるで雷のような声で一喝され、言いかけた女中も思わず口をつぐんだ。
「奥のことは、主のひとりであるこのわらわがいちばんよう解っておる。口出し無用、なん人も勝手な行動は許さぬ。上への調べの手続きはわらわが取るゆえ、そなたたちは自分の勤めに励んでおればよいのじゃ」
そして、女中頭の報告も最後まで聞き終わらぬうちに、清乃はさも退屈げに息を漏らしながら、
「このような夜中に何事かと思えば…。皆の者、大事ない。部屋へ帰るぞえ」
まるで人とは思えない冷たい言葉を残し、くるりときびすを返しすでにその場から立ち去ろうとしているのだ。
そのあまりの態度に、さすがの葵も愕然となった。
(どうなってるの…。お福さまのご不在の間に、まさかここまで大奥の腐敗が進んでいたなんて)
その時。
葵は、お賀代が葵の着物の袖をギュッとつかんでいるのに気づいた。
「お賀代ちゃん?」
葵の問いにお賀代は顔を上げると、険しい表情で呟いた。
「…うわさになってるのよ。一連の事件は、清乃さまの手の者の仕業だって」
「なんですって!?」
あまりのことに、葵は思わず聞き返した。
奥の主が仕えている女中の命を奪うなどとは、まさかそのようなことがあり得るのか。
「清乃さまは、いつまでも若くお美しいお方だわ。大奥内で権力を握った暁には、将軍さまに取り入って、願わくば室(妻)の座につきたいと必死なのよ。
将軍さまには今のところ、御台さまも側室もいらっしゃらないでしょう。いずれ皇家からしかるべき正室がお輿入れなさるとしても、側女か側室なら…。
だから、自分以外の者が将軍さまに見初められるのを恐れて、美しい奥女中を片っ端から亡き者にしようとしているんですって…」
(清乃さまが、家光さまの室に――!?)
お賀代が心配そうに葵を見上げる。
「ともえちゃん、あなたも気をつけて。殺されてるのは、みんな見目の美しい若い娘ばかりなのよ。あなたも狙われるに違いないわ」
触れた手から、お賀代の震えが伝わってくる。
あまりの衝撃に、葵は思わずめまいを覚えた。固く握った拳が怒りに震える。
権力欲しさに罪もない娘たちをおびやかして、殺して。
そしてその手を将軍家光にまで伸ばそうとは。
(このあたしが、絶対に化けの皮をはがしてやる…!)
お付きの女中たちを引き連れて悠然と去っていく清乃の後ろ姿に、葵は激しい怒りを覚えていた。
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