大江戸伝説 葵小町〈後編〉
〈第三幕 危うしお賀代! 夜桜の惨劇〉
華の大奥に、夜の張(とばり)がおりる。
葵は御犬小供の寝所を抜け出し、夜回りのかたわら、一連の事件の調べにかかっていた。
(あの襟元…。きっと、濡れ紙か何かで殺害されたんだわ)
濡れ紙とは、眠っている相手の手足を押さえつけ、水を含んだ懐紙などを顔に乗せて相手を窒息させる方法だ。
傷跡が残ることもないので、他殺と判断するのは非常に難しい。手練(てだれ)の忍びの犯行としか思えなかった。
殺人を決行した犯人は、同じ部屋の女中に見つかったのに気づいて逃げ出した。そのときに、誤って畳や床に水をこぼしていったに違いない。
本来ならすぐにでも家光に報告すべきだが、緊急事態だ、今ここを離れるわけにはいかない。また今夜にでも、新たな被害者が出る恐れもあるのだ。
葵は顔を上げ、濃紺に澄み渡る夜空を見上げた。
雲ひとつない空には白い大きな満月がうかび、五重の天守を荘厳に照らし出す。闇夜に咲き乱れる満開の桜は、時折吹き抜ける春の夜風に純白の花びらを散らし、妖艶でとらえどころのない不安を呼び起こす。
城中は不気味に静まり返り、聞こえるのは廊下の角ごとに灯されたかがり火の小さく弾ける音ばかりであった。
(そういえば、こんな満月の夜、家光さまとお部屋を抜け出して富士見櫓に登ったことがあったっけ)
葵は遠い記憶を呼び起こすようにやわらかくまぶたを伏せた。
そう、あのころはまだ家光さまは元服前の若君で、竹千代君と呼ばれていた。
たおやかで物静かな少年だった竹千代さまを私が無理やり連れ出して、櫓の格子窓からふたりで春の月を眺めたんだ。
あの後交代でやってきた見張り番に見つかって、私はこっぴどくしかられたけれど、竹千代さまが『自分が連れ出した』とかばって下さって、結局お咎めを受けずにすんだのだっけ。
遠い日の思い出。それも今は懐かしい。
もう戻れないあの無邪気な日々は、私の大切な宝物。
「―――」
しばしの沈黙が流れる。
心を駆け巡る思いを断ち切るように、葵はゆっくりとまぶたを上げた。
その瞳に、青い闇と月の光が反射する。
しかし葵の表情からは、すでに先ほどまでのやわらかな面影は消え去っていた。
――何を血迷うことがある?
生まれたときから、常に生と死の狭間に身を置いていた。
それは、草として生まれてきた者の当然の宿命とでもいえるもの。
束の間の安らぎなど、要らない。
闇に生き、闇に消える。
――それが、忍びのさだめなら――。
葵は再び目を伏せた。
妖しく艶めく桜色の唇が、不自然に歪む。込み上げる嘲笑(わら)いを、喉の奥へと呑み込んだ。
頬をなでる春の夜風に、心だけが切なく震えた。
襖の夜風にきしむ音に、お賀代は目を覚ました。
今夜はこれから、深夜の夜回り当番に当たっているのだ。奥の治安を守るのも、女たちの重要な役目である。
大奥は外界と完全に隔離された世界であり、『奥方の儀、何事によらず外様へ洩らすまじきこと』という誓詞によってすべてが極秘事項とされている。闇夜に紛れて不審な輩が侵入し奥向きの秘儀が表沙汰になっては、将軍家の威信に関わることになるのだ。
十二畳の寝所に所狭しと雑魚寝する女中仲間たちを横目に、眠い目をこすりながらお賀代は布団から起き上がる。
と。
(ともえちゃん…?)
隣で眠っていたはずの、葵の姿が見えないのだ。
(おかしいわね、今日は当番だって言ってたかしら…。
まあ、いいか。これからあたしが代わるんだものね)
気を取り直すと、お賀代は寝乱れた着物の裾を直し、廊下に面した障子に手をかけた。
――その時だった。
音もなく、目の前の障子が引かれた。まだ少しも力などかけてはいないというのに。
(えっ…)
ふいによぎった不穏な空気に、お賀代は体を強張らせる。
しかし、遅かった。闇の中から伸びてきた腕が、お賀代の動きを完全に封じる。
一体何が起きたのか、認識する間もなく――
お賀代の体は、そのまま闇へと引きずり込まれていた。
(…?)
かすかな風の流れに、葵は廊下の奥を振り返った。
神経をそばだてる。
城内の変化を悟るのに、そう時間はかからなかった。
風に乗り、奇妙な音が耳に滑り込んできたのだ。
きり、きり…
何かの擦れるような、甲高い音。
(な…に? この音…これは、まるで…)
葵は瞬時に駆け出していた。
聞き違えるはずなどない。忍びの里で修行を重ねていた頃、飛び道具として使用していた組み紐のきしむ音だ。
そして、音の合間に、微かだが確かに耳に届いた声。
あの声は!
とらえどころのない胸騒ぎか、葵の心を激しく乱した。最悪の予感。
長い廊下の突き当りを曲がった、その瞬間。
「……!」
目に飛び込んできた場景に、葵は全身の血が凍りつくような錯覚を覚えた。
桜の幹に固く結わえ付けられた組み紐に、白くやわらかな首筋を絡み取られた、それは。
紛れもない、お賀代の姿だったのだ。
「お賀代ちゃんっ!」
瞬時に葵は髪の簪(かんざし)を抜くとそれを投じる。鋭い音と共に、簪は張り詰めた組み紐を過たず切り裂いていた。
葵はすぐさま駆け寄って組み紐を取り去ると、お賀代の体を抱き起こした。
「お賀代ちゃん、しっかりして!」
「ともえ、ちゃ…」
うっすらと、まぶたが押し上げられる。
「あい…つら、きよの、…さま…の…名を…」
苦しい息の下で、お賀代は懸命に言葉をつむぐ。
葵に向けて伸ばされた腕は、…しかし途中で力を失い、ぱたりと庭の地面に落ちた。
「お賀代ちゃんっ、お賀代ちゃん! 目を開けてぇっ!」
震える手を、口元にそっとかざしてみる。しかし、お賀代はすでに息をしてはいなかったのだ。
(こんな…こんなことって…!)
腕の中で動かなくなったお賀代の体を、葵は強く強く抱きしめる。
――血迷う理由などない――
――束の間の安らぎなど要らない――
そう、誓ったはずなのに。
誓ったはず、なのに…
(お賀代ちゃん…!)
葵は鋭くその瞳を見開いた。
そこには激しい怒りと悲しみが浮かび上がっていた。
「何なの、何かあったの!?」
騒ぎに気づいたほかの女中たちが、今ごろになって起き出してくる。
「一体何が…? …ともえさん!?」
呼びかける女中の声も、葵の耳には届いてはいなかった。
ただその体は、風よりも速く、清乃のいる長局(ながつぼね)の一ノ側と呼ばれる棟に向かって駆け出していた。
忍びにとって、『感情』というものを持つことは御法度。
なぜならそれは、自分の命を落とす原因にもなり得るからだ。
しかし今の葵には、そのような訓戒などどうでもよかった。
お賀代の命を奪った、憎き敵(かたき)。
(許さない! 清乃、私はあなたを絶対に許さない…!)
葵の心に、全てを焼き尽くすような激しい怒りの炎が燃え上がっていた。
それは葵にとって、初めて覚える、抑えきれない感情だった。
〈第四幕 奇跡を呼んだふたりの友情〉
広大な長局の南際に位置する、お広敷・一ノ側。そこは、奥女中たちの住居である長局の中でも、御年寄り役たちの住まう特別な棟である。
その一室――絢爛たる調度に彩られた、清乃の私室にて。装束に身を包んだ数名の男たちに、清乃は感情のままに怒鳴り散らしていた。
「なんじゃと! あの小娘に、とどめを刺し損ねたと!? ええい、なんたる不始末じゃ」
艶かしい寝着姿に、つやめく長い黒髪。息を呑むような妖しい面(おもて)には、狂気の怒りがあふれている。
肩でぜえぜえと息をしながら、清乃は独り言のように呟いた。
「あのお賀代とかいう娘の、なんと幼く愛らしいこと…。あやつが生きておるというだけで、わらわはこの心の臓が引き裂かれる思いじゃ」
「娘は虫の息にござりました。放っておいても死は免れぬと」
配下の忍びの言葉に、清乃は少し安堵したかのように頷いた。
「そういえば、お賀代と共にいたあのともえとかいう娘…。御犬小供の間で見たが、若さと希望に満ち溢れた表情をしておった。…許せぬ。わらわより若く美しい娘など、この大奥では生かしておくわけにはゆかぬ! 明晩にでも、今度はともえを」
すでに正気を失っているとしか思えない。自分よりも美しいという理由だけで、罪もない他人の命を奪うなどとは。
「わらわの美しさに勝てる者などおらぬ。とのの室となり、嫡子を産み、やがては殿をも滅ぼす…。さすれば天下を動かすことになるのはこのわらわじゃ!」
清乃は、手にしている扇を口元にあて高らかに嘲笑(わら)う。
刃向かうものなどない、そう悟った妖艶な修羅の表情で。
――しかしその時。
立ち込める殺気を切り裂く声が、闇の中から響き渡った。
「そんな汚いやり方で家光さまのお心を捕らえようだなんて、笑い話にもなりゃあしないよ!」
「!」
思いもかけなかったことに、清乃も忍びの者たちハッとして辺りを見まわす。
「なにやつじゃ!」
その、刹那。
清乃のおわす上座のちょうど真後ろにあった掛け軸が、勢いよく弾かれて空に舞った。
その後ろに開いた空洞から現れたのは、うわさの娘、ともえ―葵―の姿だったのだ。
「そなた…!」
「こんなところに城外へ続く抜け道があったなんてねえ…。ここから忍びの者たちを出入りさせてたってわけね」
男子禁制の大奥に、ただでさえ危険分子を含んだ凄腕の忍びたちが、こうも易々と出入りしていたなんて。
「…警護の者たちにも気づかれずにこの一の側に忍び込むとは…そなた、ただの娘ではないな。一体何者じゃ!」
清乃の言葉に、葵の表情が鋭く改まる。
そして、少しの揺るぎもない凛とした声で、葵は言い放った。
「天に代わって悪を討つ! 家光さま直臣・女ざむらい『葵小町』たあ、このあたしのことさ!」
「葵、小町…!?」
その名を耳にした瞬間、清乃の形相が見る見るうちに変わっていくのがわかった。
先ほどの殺気に満ちた表情に、さらに鬼のような表情が重なる。
「そなたが…、そなたが『葵』か! 家光公のご寵愛を一心に受けておるという、女忍びか! …許せぬ。わらわにたてつく者は、なんびとたりとも生かしてはおけぬ!」
何を勘違いしているのかは知らないが、清乃は生々しい怒りを言の葉に変え、そのまま葵にぶつけてくる。
しかし葵は少しもひるむことなく、憎き仇の目をぎらりと睨んだ。
「いい加減にしなっ! よくもみんなをあんな目に遭わせたね!」
襲いかかってきた屈強な忍びたちの体を、軽く投げ飛ばす。
逃げる暇(いとま)も与えずに、葵は清乃の目前に立ちはだかっていた。
「…逃がさないよ」
「…!」
逃げ道を絶たれ、清乃は悔しげにぎりぎりと歯を食い縛る。
警護の女中たちを呼ぶわけにも行かない。なにせ相手は公儀の使い――鬼札(おにふだ)である『御意簡牘』の印籠を所持しているのだ。
絶体絶命の境地に、清乃はふっと息を漏らしたかと思うと、突然狂ったように高笑いをあげた。その表情は、まるで最後の恐怖を愉しんでいるかのようにも見えた。
血走った目で葵を見つめ、叫んだ。
「ほ…ほほほ。いくらわらわを斬ったとて、あのお賀代とかいう娘は戻ってなど来ぬわ!」
「――!!」
その言葉に、葵の思考回路がぷっつりと途切れた。
この腕の中で、息を引き取ったお賀代。
理由もわからず恐怖のままに死んでいった、たくさんの若き乙女たち。
煮えたぎる思いが、ついに溢れ出た。
葵は簪を抜くと――
「皆の仇(かたき)っ!」
心の任せるままに、その手をかざした。
その時だった。傍らの襖が、勢いよく引かれたのは。
「やめろ、葵! 殺してはだめだ!」
突然かけられた言葉に、葵はハッと我に帰った。
この声は…。
「家光さま…!」
聞き違えるはずなどない、我が主君の声。
ただでさえ、城中を血で汚すことは御法度。瞳に飛び込んだ主君の姿に、葵は簪を握る手にためらいを覚えずにはいられなかった。
その、一瞬の出来事だった。
葵の隙を観た清乃が、忍びのひとりの手にしていた小太刀を奪い取り、刃をかざして葵に斬りかかったのだ。
とっさによけた葵は、そのまま間髪を開けずに清乃の背後へと回り込んだ。
「葵!」
家光が止める暇もなく、葵は清乃の手にする小太刀を奪い取っていた。
その切っ先を清乃の喉元に押し付け、そして――
ざくっ…
乾いた音が響いた。
その場にいた誰もが、朱の場景を予想した。
しかし。その瞬間が訪れることはなかった。
見れば、ついさっきまであれほど長く美しく艶めいていた清乃の御髪(おぐし)が、肩の辺りでことごとく切り去られていたのだ。
はらはらとせつなげな音を残し、闇色の妖気を散らすように御髪は床に滑り落ちる。
清乃はこときれたようにがっくりと膝をついた。
その時ちょうど、家光の後を追ってきた男家臣たちが部屋になだれ込んできた。
清乃と忍びたちはすぐさま捕らえられ、縄をかけられて、次々と一ノ側から引き立てられていった。
事態を見にきた女中たちの人垣と、彼女たちを一ノ側から追い出す男家臣たちでごった返す中。
葵は唇を噛み締めたまま、無言で家光の瞳を見上げた。
その体は、込み上げる怒りに未だ打ち震えている。
家光は、包み込むようにふっと表情を和らげると、言った。
「お賀代は無事だ」
「えっ…!?」
思いもかけなかった言葉に、葵は呆然と両の瞳を見開いた。
まだ信じられないといった葵の表情に、言い聞かせるように家光が続ける。
「女中頭たちが、手討ち覚悟とわしのもとへ直談判にまいったのだ。奥への男家臣たちの出入りも特別に許可した。お賀代は御座の間に通し、医師の手当てを受けさせておる」
「……」
「意識のないまま、そなたの名を呼びつづけている」
葵は握り締めていた小太刀を取り落とした。全身の力が、一気に抜けていくようだった。
溢れ出る抑えきれない感情。それは、葵の心を静かに、そして確実に溶かし始めていた。
凍てつくような冬が終わり、あたたかな日差しが残雪をやさしく大地に還していくように――。
死は免れないと思われていたお賀代は、奇跡的に息を吹き返した。
そしてあの後、三日三晩うなされつづけた。あれだけ恐ろしい目に遭ったのだ、無理もない。
様態も次第に回復して、やっと他人と言葉を交わせるようになった頃。ようやく医師の許可を得て、葵はお賀代の元を訪れた。
「ねえ、ともえちゃん」
布団に横になったまま、お賀代が呟く。
その枕元に付き添っていた葵は、静かに返した。
「なあに? お賀代ちゃん」
「…ともえちゃんが、あいつらを倒してくれたのでしょう? ともえちゃんが、皆の仇を取ってくれたのでしょう?」
思いもかけなかったお賀代の言葉に、葵は顔を上げた。
「あたしにはわかるの」
にっこりと微笑むお賀代。
その首筋にうっすらと残る縄目の痣に、葵はぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。
何か付け加えようとしたお賀代は、しかしそこで苦しそうに咳き込んだ。
久しぶりに長く話し込んでいたのが、きっと体に障ったのだろう。
「…もう、休んだ方がいいわ」
葵が言うと、お賀代は優しく微笑んだ。
「ともえちゃん。あたし、あなたとお友達になれて嬉しかった。あたしたち、これからもずっとよいお友達でいましょうね。どこにいても、何があっても、きっとよ…」
深い眠りに落ちてゆきながら、お賀代はうわごとのように呟いた。
「そうね。あたしたち、ずうっとお友達よね…」
葵も答える。しかしその声は、語尾が微かに震えていた。
葵は、心の中で全てを締めくくるかのように、静かにまぶたを伏せた。
任務は、無事完了したのだ。
――さようなら、お賀代ちゃん。あたしの大切なお友達――
障子の隙間から、黄金(こがね)色の朝日がやさしく部屋に差し込んだとき。
葵の姿は、すでに光の中にかき消されていた。
〈第五幕 ご褒美はいわく付き〉
天守や大奥を含む本丸の全てを見渡すことのできる中庭に、家光と葵の姿があった。
「務め、大儀であった」
任務の一部始終を報告しに訪れた葵は、ひざまづいた状態から立ち上がると、ふっと背後を振り向いた。
その視線の先には、江戸城本丸の約半分の敷地を占める広大な大奥の館がそびえている。
そんな葵の姿に、家光はそっと声をかける。
「あのまま、大奥に残りたかったのではないのか?」
「………」
お賀代を気遣う葵の姿が甦り、家光はやわらかく目を細めた。
思えば、幼くして家光の『葵』として城に上がった葵には、真の友と呼べる女友達の存在などこれまで皆無であったのだ。
葵は、生まれながらにして草として生きる運命を背負った娘。しかし、大奥で奉公し、いずれは良縁に巡り会い嫁いでゆく、そのような生き方も、ひとりの娘としての幸せであったのではないか…。
一瞬の沈黙の後。葵はくるりと家光を振り返った。
その表情には、ただひとつの迷いもなかった。いつもの葵、そのものであった。
「ご冗談を。とのの妻の座をめぐる愛憎劇に巻き込まれるなんて、二度と御免ですわ」
「ずいぶんはっきりと申すのだな」
「これくらい正直でなければ、『葵』のお役は務まりませんから」
正直過ぎる葵に、家光は声を立てて笑った。それは苦笑というより、葵の決意のすべてを理解しやわらかく包み込むような、日輪にも似たおおらかな笑みであった。
「実は葵に、褒美を与えようと思ってな」
家光は、合図をするかのようにふっとどこかへ視線を送った。
そして、葵の前に現れたのは。
「ともえちゃん!」
「お…お賀代ちゃん!?」
そこにいたのは、紛れもない、親友・お賀代の姿だったのだ。
「心配したのよ! ともえちゃんったら、いきなりいなくなっちゃうんだから!」
「お賀代ちゃん…!」
ふたりは駆け寄ると、お互いに両の手を握り合った。
今にも熱い涙があふれそうになるのを、葵は必死で堪えていた。
二度とまみえることはないと思っていた、無二の友。まさかこのように再会を果たすなど、葵は夢にも思っていなかったのだ。
「お賀代ちゃん、一体どうしてこんなところに」
「あたし、将軍さまのお方さま(妻、側室)のお部屋係をするようにっていわれて…」
「家光さまのお方さま!?」
そのようなこと初耳である。家光にはまだ、お方さまどころか正室すら輿入れしてはいないはずだ。
「そうなのよ。『葵の方さま』って方にお仕えするようにって、あたしも驚いちゃって」
「アオイの方サマ?」
何だか聞き慣れたような慣れないような響きに、葵は思わずすっとんきょうな声で聞き返していた。
「ええ。なんでも、将軍さまの幼なじみの方とかで、とってもお美しい方だって、大奥内でもうわさになってたわよ」
「葵の、方さま…!?」
ちょっと、待って。それってまさか…!?
状況が把握できてゆくのと同時に、葵の心は果てしなく冷静になってゆく。
ちらりと冷たい視線を向ける葵に、一方の家光はといえば、
「あ、わ、わしは、ちょっと急用が…」
抜き足差し足忍び足…なんとこっそりその場から立ち去ろうとなどしているではないか。
「い~え~み~つ~さ~ま~!?」
ついに全速力で逃げ出した家光に、葵は思いっきり叫んだ。
「家光さまっ! わたくしがいつから家光さまのお方さまになったっておっしゃるんですか!」
「ちょ…ちょっとした手違いじゃ、そう、本気で怒るな」
「手違い!? しかも、これのどこが『ちょっとした』なんですか! わ、わたくしは危うく…」
(家光さまの妻にさせられるところだったんですからね――っっ!!)
こぶしなど振り回しながら、家光の後を追いかける。
そんなふたりの姿に。
「と、ともえちゃんが、将軍さまを追っかけまわしてるぅ…」
口元をひくっと引きつらせて、お賀代が呟いた。
考えずとも、このようなこと葵だけの特権だ。果たして他にいるであろうか? 恐れ多くも天下の将軍を、白昼堂々追いかけまわしたりできる娘など…。
そういう意味で、葵はやはり何だか特別だったりするのである。
透き通るような日本晴れの空の下。
春の盛りを告げる薄紅色の花びらたちが、若い三人の新たなる門出を祝うように、いつまでもやさしく降り注いでいた。
〈終幕 時の向こうで〉
女ざむらい『葵小町』は、今日もどこかで戦っている。
八百八町に悪の途絶えることがない限り、葵はきっと戦いつづけるのだ。
幕府の安泰のため。
将軍家光のため。
お江戸を悪から守るため。
葵は今日も、戦いつづけるのだ。
― 完 ―
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