恋は爆裂パンクラッシュ!
〈第3ラウンド 試練の予感〉
なぜだか、怖いっていう感情はなかったんだ。
こんなの絶対変だよね! つい数秒前まで自分しかいなかった車の助手席に、いきなり男の人が、しかも見ず知らずの人が座ってる。
ほんとなら、悲鳴をあげて周りに助けを求めてるくらいの状況のはずなのに。
そういう焦った気持ちには、全然なれなかった。
初めて会うのに、なぜか懐かしい。ずぅっと昔から知っている、そんな感覚。
私がドアを開けて外に出ると、彼もつづいて車外に降り立つ。お互いゆっくり車の前まで歩いていくと、彼の鍛え上げられた体つきが、今度ははっきり見えた。
筋肉質で、背も高くて、さっきまでいたMARCHの助手席が狭く感じられたくらい。
短髪の黒髪に、くっきりとした二重まぶたに縁取られた漆黒の瞳。
ぴったりとした黒のタンクトップに、お揃いのジャージのズボン。その上から、膝下まである長丈の赤いボアコートを羽織ってる。首には青と黒のコントラストが激しいマフラータオル。そして腰には、輝く黄金のメダルを装した青色のベルト。
まるっきりどこかのプロレスのチャンピオンみたいな、荒くて粗野なイメージの外見だけど…。でも、それでいて、ちょっとこっちが気圧されてしまうみたいな、高貴な雰囲気が彼をまとってる。
『あなた、誰?』
そんなこと、聞かなくてもわかってた。
「ジン…だよね」
夢じゃない。夢かも知れない。
でも、彼はジンだ。間違いなく…、私のただ一人の王子様、龍王寺ジンなんだ。
そしてジンも、私の言葉を受け止めると、ほんの少し戸惑いながらも、男らしい力強い笑顔で言ったんだ。
「――押忍! もしかしてキミが、菜々花なのか?」
そのセリフの最後のところは、ビミョウに新手の早口言葉になりかけてる気がしたけど。そんなのどーでもよかった。
身体の底から湧きあがる、熱い気持ち。涙なんかとっくに吹っ飛んでいた。まさか、ほんとに会えちゃうなんて!
ジンは私の目の前に来ると、片膝を折って地面にひざまずく。大きな手でぎゅっと私の手を取って。
「驚かせてすまなかったな! 初めまして。オレは、格闘技王国パンクラッシュの第三王子、龍王寺ジンだ! こうして菜々花に会うことができて光栄だぜ!」
まっすぐな瞳で見つめられて、思わずどぎまぎ。こんなふうにひざまずくなんて、まるでどこかの国の騎士や王子様みたい…って、ジンはホントに王子様だけどさ。
キリッと引き締まった凛々しい顔立ちに、私の心臓は少しだけざわめいてしまう。
「ついさっきキミからのメールを受信して、オレ、いてもたってもいられなくて! 返信しようとウェブに接続した瞬間、目の前が燃える炎のような光に包まれたんだ。そして、気づいたらここにいた。菜々花のそばへ行ってやりたいというオレの気持ちが、天使に伝わったのかも知れないな!」
「…うん。私もあなたに会えてとっても嬉しいよ、ジン!」
うわぁ。我ながら、お互いめちゃくちゃ恥ずかしいこと言ってる気がするけど、まぁいいか。
そう、私はもう、この時点で完全に開き直っていたんだ。
夢でもいい。現実でもいい。ジンはこうして私に会いに来てくれた。『会いたい』のメールへの返信は、彼自身だったってこと。
それはとっても不思議なメール交換だったけど…。
ジンは実際、こうして私の涙を止めてくれた。その力強い笑顔と優しさで、私の心を一瞬だけでも満たしてくれた。
――だから、もういいよ。もう充分。
私はもうちょっとだけ頑張れるから。
「ありがとね、ジン……」
なぜだか突然、まぶたが重くなった。泣きすぎたせいかな? それとも昨日の湯冷めが今頃きちゃったとか? あは、まさかそんなわけないよね。
強烈な睡魔が、私の脳みそに一気に侵入してくる。でもそれは、決して不快な感覚じゃなくて。
身体中の力が抜けていく…。
ああ、そうか。これはきっと、夢から覚める証。目覚める瞬間に時々感じる、高いところから落ちるようなあの感覚。
…だけど、ほんとに最後の最後の瞬間…。
『菜々花!』
薄れゆく意識の中で、私の名前を呼ぶジンの声と、崩れ落ちる私を支えてくれた力強い腕の感触、それだけは。
私の心と身体に、いつまでもいつまでも残っていたんだ――。
ジィ~、ガチャン。
食パンのトースターみたいな器械の排出口から飛び出してきたタイムカードに押された時刻は、十七時五十八分。
結局私は、あれから車の中で爆睡しちゃって、気づいたときにはもう肝心の遅番の出勤時刻ギリギリになっていたんだ。よく覚えていないんだけど、神社で車を停めて、そのまますぐに居眠りしちゃったみたい。
車のシートを倒したことすら覚えてないや。よっぽど眠かったのかなぁ。
それにね…実はひとつだけ、不思議なことがあったんだ。
眠っていた私の身体の上にそっと掛けられていた、ボアコートのこと。
もしも私が羽織ったら地面に引きずってしまいそうな長丈で、しかも色は強烈な真紅。目覚めたときは、『あれっ、どこかで見たような…』って既視感を感じたんだけど、車のエンジンをかけて時刻を確認した瞬間、もうそれどころじゃなくて。
遅刻しないで済んだのが奇跡だよ、ほんと。あーよかった★
それにしても、一体誰のなんだろこれ……。うーん。
「おはようございまーす」
いつもよりちょっとトーン低めで挨拶しながら、店内に入る。(ちなみに、どんな時間であろうとも、仕事に入るときの挨拶は『おはよう』って決まってるんだ)
「おう、おはよう。今日は悪かったなぁ、いきなりで」
バックヤードのテーブルで日報を書いてた轟さんに言われて、私はとっさに笑顔で返した。
「いえ、全然だいじょぶですよー。明日休みだし」
「おはよ、菜々ちゃん」
「はよッス」
厨房の中では、早番の夏美さんと、遅番で先に入ってたマサキが、それぞれゆで麺器とギョーザ焼きの鉄板の前で、セットしてあるタイマーが鳴るのを待ってる。
そんなふたりの表情は、いつもどおりの『先輩と後輩』のものに戻ってて、なんだかちょっと不思議な感じがした。
しっくりこない感触を振り切るように、私も言う。
「おはようございます、夏美さん。おはよ、マサキ」
「おせーぞ菜々花。寝過ぎで寝坊か?」
相変わらず憎まれ口しかたたかないマサキ。その瞬間目の前のタイマーがでっかい音で鳴って、あわてて鉄板のふたを開けてフライ返しでギョーザをお皿に盛り付けてる。
マサキ、上達したなぁ…。あんなにも手慣れた感じで、盛り付けにも少しの狂いもない。麺上げだってものすごく早い。
それに比べて、私って何だろう…。ギョーザにしても、蒸かしたお湯を捨てようとしてそのままギョーザまで排水溝に流しちゃったり、いまだに麺網のお湯がうまく切れなかったり。
それに、いちばんの問題はチャーハンだよ。あの重すぎる鉄鍋が持ち上げられない限り、私は永遠にチャーハンの作り方を教えてもらえない。
マサキの姿を目で追いながら、ホールにも出ずにボーッと厨房の中に突っ立っていた私に気づいたのか、バックヤードにいた店長がじろりとこっちを見た。
なにかを思案してるみたいに、軽く腕組みなんかしてたかと思うと。
「……よし、今夜は厨房は寺山と桐原に任せる」
…って。
「えぇっ!?」
そのひと言に、マサキと私は思わず飛び上がってしまった。だって、イキナリそんな大役任せてもらえるなんて、まさか思ってもみなかったんだもの!
それに、マサキはともかく、私はこれまで補助としてギョーザ焼きだけをやらせてもらうのが日課だったし、たまにアイドルタイム(午後二時~五時の暇な時間帯)に麺上げの練習をさせてもらうときだって、いつも夏美さんが隣にいて付きっきりで指導してくれてたんだもの。
もちろんメニューもラーメンとギョーザだけじゃないし、手間のかかる焼きモツとかおつまみチャーシューとか、例のチャーハンだって作らなきゃならない。
それを、今夜は新米のマサキと私だけでこなせってゆーこと!?
ぽかんと口を開けてボーゼンとしてる私たちに、店長は厳しい表情で言ったの。
「勘違いするんじゃないぞ。まだお前達は半人前にも満たないひよっ子だ。だが、自分達の現在の実力を知っておくこともひとつの勉強だろう。今日は平日で、お客様の入りもまばらだからな。私は奥で明日の仕込みにかかる」
「で、でも…!」
いくらなんでも、そんなの無理です! そう私がつけ加えようとした、そのとき。
「――はい、わかりました」
ギョーザ焼きの鉄板の前。押し黙ってたマサキが、短く答えたの。その声は強い決意に満ちていて、いつものおちゃらけたマサキのものとは別人みたいに聞こえた。
「どこまでできるかわからないスけど、できる限りやってみます」
「マサキ…!」
うろたえる私の瞳を、マサキの瞳が捕らえる。
「菜々花。オレ、知りたいんだ。今、自分にどの程度のことができるのか。試してみたいんだ」
どくん。低く冷たく、心臓が脈打つ。
今、自分にどの程度のことができるのか――。
言葉をなくしている私の右肩に、後ろからそっと、夏美さんの手が置かれる。
「自信持って、菜々ちゃん。私とのいつもの連携を思い出して」
夏美さんの、突き放すような、それでいて優しすぎる表情に、私は逆に泣きたい気持ちになってしまう。
遠ざかっていく背中に追いすがりたい気持ちを必死で押さえて。
私はいつものとおり、ギョーザ焼きの鉄板の前にスタンバイして、最初のオーダーが入ってくるのを待ち始めたんだ…。
その夜の私は、ほんっとに最悪としかいえない有り様だった――。
ゆで麺器の前で麺を上げてたくさんのトッピングを施してくマサキの隣で、私はざっと二十枚のギョーザを焦がして、十数個のシューマイをセイロの中でドロドロにさせた。
チャーハンのオーダーが来てマサキが鉄鍋を振るっている間、ゆで上がった麺のお湯を切ろうとして、七人前もの麺を丸ごと床に落として台無しにした。
それに、クレームも、三件も来ちゃったんだ。みそチャーシューにトッピングのチャーシューが乗っかってなかったり、辛味抜きのラーメンにたっぷり七味がかかってたり、つけ麺のスープが薄すぎて味がしなかったり…全部私のミス。
間違った商品をお店に出してお客様から直接クレームを受けるのは、厨房にいる社員たちじゃない、ホールに出てるバイトの子たちだ。みんなの不服そうな表情が、ピリピリした雰囲気が伝わってくる。
はっきりいっちゃえば、私なんて、いないほうがマシだったと思う。
――でも、誰も何も言わない。マサキも、店長も。
失敗するごとに焦りが増してきて、更なる失敗を呼び起こしてしまう。
もう、だめだよ。自分が情けなくって、涙があふれて来そうになる。でも、ぎゅっと唇を噛んでそれを止めた。これが私の『仕事』なんだ。お給料もらってやってる、『仕事』なんだ。その最中に、泣き言なんてまさか言えるはずなんかない!
深夜二時三十五分。長かった一日の仕事がやっと終わった。
気まずい雰囲気のままお店の裏で店長とマサキと別れて、重い足取りでエンジンの温まったMARCHに乗り込もうとしたとき、後ろからマサキの声がした。
「菜々花」
振り返ると、なんだかすまなそうなマサキの顔とぶつかる。
「今日はゴメン…。菜々花の意見も聞かないで、勝手に店長の言うことに従った。そのせいでお前を巻き込んで大変な思いさせちまったんだよな」
悪ぃ、って軽く頭なんか下げるマサキに、私はアハハと笑う。
へんなの。謝るのは私の方なのにね。みんなの足を引っ張ってた私の方なのに。
「同情なんかいいよ。もともとマサキは、私とは出来が違うんだもん」
知らないうちに、言葉がとげとげしくなっちゃう。違う、こんなこと言いたいんじゃない。でも…。
マサキがまっすぐに私の目を見た。その途端、心の中がごちゃまぜにされたみたいに渦を巻いた。
やだ、そんなふうに見ないでよ。こんなにも情けない私を!
「違うことなんかない! 言っとくけどな、菜々花、お前に足りないのは…」
だめだよ、なんか…。もう、止められない!
「――うるさいなっ、威張らないでよ! ほっといて!」
違うのに。こんなのやつ当たりだってわかってるのに。一度口から出てしまった言葉は、取り消すことなんてできない。
困ったように表情を歪ませているマサキにふいっと背を向けると、私は運転席のドアを勢いまかせに閉めた。サイドブレーキを下ろすと、ATのギアをDriveに入れる。
寒空の中に立ち尽くすマサキを残して、私はアクセルを最大限に踏み込んで、猛スピードで駐車場を離れてた…。
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