花房幻影伝 お蘭! ― 出陣の巻 ―〈第一幕〉

花房幻影伝 お蘭! ― 出陣の巻 ―

 

〈第一幕〉

 遠き東の海の向こう。
 絶大なる権力を持つ将軍により治められ、鎖国政策の下、独特の文化を花開かせる伝説の島国。

 その名を日ノ本――。

 伊豆国は大瀬崎(おせざき)。風魔の流れを引く、女ばかりの忍びの隠れ郷を、今宵一陣の風が吹き抜ける。

「かねてより放っていた先遣隊が帰郷した。これより新たに差し向ける者たちには、江戸での拠点作りという大役を担ってもらうことになる」

 月明かりの中、集う無数の影に言い放つのは、不動なる威厳と熟した色香とを放つ女長(おさ)。

「お凛、お蓮、なな、桔梗。頭領には、お蘭」
「はっ」
 音もなく踏み出す五つの影。その先頭、腰まである黒髪を可憐に揺らす娘が、眼前にそびえる女長――艶なる母の姿を見上げた。

「頼んだぞ」
「不肖お蘭、花房家の名を汚さぬよう尽力いたします」

 ぶつかる視線の奥に、熱き火花がはじけた。母娘の間に刻まれた積年の溝を、月明かりの下にさらけ出すかのように…。

 これは、蘭たち三姉妹がシュライヴガルド王国へ亡命する、ほんの少し前の物語。

 華のお江戸を疾風のごとく駆け抜ける若きくノ一たちの、波乱の成長の記録である。


「ぶゎぁ~あ…」
「………」

 往来の真ん中であくびをかます上司を見上げ、矢上清四郎(やがみ・せいしろう)は今日何度目かのため息をついた。

 隠居した父の跡目を継ぎ、江戸南町奉行所同心のお役に就いたのがひと月前のこと。齢十九にして早くも人生の選択を誤ったかと、一抹の不安が過ぎる。

「小山田殿! そのような気の抜けたことでいかがいたします」
「んぁ?」

 目尻に涙さえ浮かべ答える中年の男は、これでも南町定町廻り筆頭同心、小山田金造(おやまだ・きんぞう)。清四郎の指南役を任されている。

「今この時も、市中には目に見えぬ悪に怯え暮らす民がおるのです」
「おぅ、それゆえ町方の我らが、かように目を光らしとるんじゃろ」
「貴殿のは、単なる腹ごしらえ目的の散策ではござりませぬか!」

 懐からのぞく料亭案内本『江戸名物酒飯手引草』を指差し、ブチ切れ寸前の清四郎。青すぎる正義感に、道行く人々が眩しげに苦笑する。

 と、人込みの中からどよめきが起こった。

「おい、日本橋でごろつきが暴れてるってよ」
「ガキが絡まれてるらしーぜ」

「! お先に参りまする、御免!」
 きらめく新品の十手を握り締め、われ先にと馳せ参じる清四郎の姿に。

「若さとは素晴らしいのぉー」
 茶屋の軒先で三色の花見ダンゴを頬張りながらつぶやく、オッサン…もとい、小山田であった。


 時は江戸。
 千々に乱れた戦国の世は遠く過ぎ去り、徳川将軍家の統治のもと、日本は天下泰平の時代を迎えている。

 鎖国政策により異国との交易は原則禁じられているが、一方で花開いた独特の島国文化は、時折密かに流れ着く異教の宣教師たちをうならせるほどだ。

 将軍家の城下町・江戸は『天下の入り込み』と呼ばれ、地方から多くの武家や商人たちが集まり空前の賑わいを見せている。

 清四郎もそのひとり。地方の郷士の四男坊だったが、跡取りのない遠縁の奉行所同心の養子に迎えられ、ひと月前江戸へ赴いた。

 本来同心は世襲ではない一代限りのお役目だが、長きにわたり江戸町方の治安維持に心血を注いできた父の、たっての希望によるものだ。

 持ち前の正義感と、猪突猛進な性格を武器に、目指すは憧れの筆頭同心。

 …しかし。
 今から駆けつけるその場所で、初の手柄と引き換えにお江戸の手荒い洗礼を受ける羽目になろうとは、まだ知る由もないのである。


「どこに目ェつけてやがんだ、このガキゃあ!」

 怒鳴り声の主は、いかにも柄の悪い浪人風の男。昼間から酒を飲んでいるらしく、足元がおぼつかない。
 そんな男を睨み返す、年の頃十二、三とみえる小柄な娘。

「けっ、大の大人が、袖が擦ったくれーでガタガタ抜かすな!」
 こちらも相当のはねっかえりだ。菜の花色の小袖の腕を捲り上げ、やる気満々。

 火事と喧嘩は江戸の華、野次馬たちが橋の両端からここぞとばかりに煽り立てる。

「いいぞ、ねえちゃん。ぶちのめしちまえ!」
「そなた、仮にも侍を志す者が、女子供に引けをとっていかがする!」
 八百八町に浪人どものあふれるご時世、仕官口探しは相当の難関なのだ。

「おい、やめぬか! 道を開けろ!」
 もみくちゃにされながら人垣を掻き分ける清四郎。その中央で一進一退を繰り返す好敵手たちはもはや英雄。

 と、娘が欄干へと追い詰められる。必死の抵抗もむなしく、下卑た笑いを浮かべる男の白刃が天高く振り上げられた、そのとき――。

 鋭い風の唸りが、清四郎の耳元をかすめた。

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