花房幻影伝 お蘭! ― 出陣の巻 ―
〈第二幕〉
「いでぇっ! なっ、何だ!?」
「!?」
響き渡る、泡を食ったような叫び声。次の瞬間皆が見たものは、刀を取り落とし後ずさる浪人と、その足元に転がる一柄の扇子であった。
「――だらしがないねぇ、なな」
高らかな声に振り返れば、橋の袂にひとりの娘が立っている。
歳は十五、六。町人風の紺のかすりの小袖姿に、桃割れの髪には藤色の玉簪(たまかんざし)。胸の前にかざされた手が、彼女が扇子を投げつけた本人であることを語っている。
「姐御さま!」
ななと呼ばれた少女の頬が紅潮した。一目散に駆け寄ると、猫のようにその身体に擦り寄る。
「面目ねぇ~! つい油断しちまったッス」
「怪我がなくてなによりさ」
艶っぽく笑むと、目を白黒させる浪人に向き直り深く頭を下げた。
「うちの若いのが、無礼をはたらいたようだねぇ。このとおり、許してやっとくれ」
歳に似合わぬ凄みを帯びたたたずまいには、ななの言葉どおり姐御の呼び名がしっくりくる。
「…だが、ちょいと目立ちすぎたんじゃないのかい?」
「あぁ? どーいう意味でぇ…」
言い終わらないうちに、娘の後を追ってきたらしい町人風の若者が叫んだ。
「ま、間違ぇねえ、この男です! うちでの酒代、三度(みたび)も踏み倒しやがったんでさぁ」
「!」
屋号入りの前掛けを掴み、わなわなと睨みつける。なんと男は恐喝・食い逃げの常習犯だったのである。
落とした刀を引っ掴み逃走しかけた男の背に、硬い十手がガツンと振り下ろされた。ようやく出番にありついた清四郎だ。
「奉行所だ! 神妙にお縄を頂戴しろっ!」
華麗な手さばきで身体をふん縛る。無数の観衆に顔を晒し、もはやこれまでとうなだれる男。
酔っ払いと子どものケンカから始まった騒動は、思わぬ収束を迎えることになったのである。
「………」
ざまーみやがれっとふんぞり返るななの隣、姉貴分の娘が、ちらりとこちらへ視線を向けた。
十手とお縄を握る清四郎の手が、微かに震えていることに気づいたのだ。
同心のお役について、未だひと月。…何を隠そう、これが初めての捕り物だった。
相手の腕が未熟だったとはいえ、機を違わば見物人に害が及んでいたやも知れない。それを、指南役である小山田の到着も待たず独断で取り押さえたとは…。
後先考えない性格が、今回ばかりは恨めしい。大目玉を覚悟し、はぁっとため息をついたとき。
「シャキッとしな、このすっとこどっこい!」
「おわっ!?」
揺さぶられるように襟元を掴み上げられる。
ぶっ飛んでいた焦点が合わさった途端、吐息さえ感じる距離に先ほどの娘の顔がある。見るからに勝気げで、芯の強そうな顔立ち。
「あんたの判断は正しかったさ。もっと自信持ちな」
「……っ」
艶めく唇の色も、淡い香の匂いも、今の清四郎を惑わせはしない。
ただ、真っ直ぐに見つめてくる、ガラス玉のような曇りなき瞳に映る自分の表情が、あまりにも情けなさすぎて――。
娘が腕を離し、時折不機嫌そうに振り返るななと共に雑踏の中に消えるまで、身動きもせずその場に立ち尽くすことしかできなかった。
(なにゆえ気づいた?)
決して口に出してはいないはず。だが、ほんの微かな心の揺らぎさえをも彼女が感じ取ったのだとしたら。
先ほどの、ふたりの会話が甦る。
『うちの若いのが、無礼をはたらいたようだねぇ』
『――姐御さま!』
(あの人もまた、多くの大切な者たちの命を預かる宿命を負っておるのやも知れぬ…)
散り散りになっていく人垣の向こうから、食べかけのダンゴを手にのっそりと歩いてくる小山田の姿が見えた。
したり顔とも取れるその表情は、よく見ればなかなかに読みづらい。
「どうだ、お江戸の女子(おなご)はなかなか刺激的であろう? のぉ?」
馴れ馴れしく肩を組み、豪快に笑い飛ばしてくる小山田に――将来へのそこはかとない不安が一気に甦り、がっくりとうなだれる清四郎であった。
時は静かに、だが確実に流れていく。名さえ聞かずに別れた娘との再会の日は、意外と早くやってくることになる。
この先彼を待ち受ける数奇な女難の運命には、まだ誰も気づかないまま――。
透き通るような日本晴れの空が、若き駆け出し同心の新たなる門出を祝うように、どこまでもどこまでも広がっていた。
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