花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―〈第一幕〉

花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―

 

〈第一幕〉

 悪夢のような雷雲が、新月の微かな光をも閉ざす夜。
 お江戸のはずれ、朽ち果てた神社の境内に、護摩の火に煽られ奇妙な櫓が浮かび上がる。

 三柱(みはしら)鳥居。

 三基の鳥居の片脚ずつを共有させることにより生まれた内部の空間に、高天原(たかまがはら)――神の住まう世界へと通ずる〈道〉を創り出すといわれる、異形の祭壇だ。

「オン バクラセン、クラセン シャシュケチガン ボダイラシャナ ソワカ」

 鳥居を仰ぎ、桔梗は真言を紡ぎつづける。夜目にも鮮やかな緋袴に、刃のごとくひるがえる白銀の短髪。独特の術式は巫女というより陰陽師のそれを思わせる。

 神楽鈴をかざし、鋭く天に五芒星を描いたとき。

「…っ!!」

 まばゆい稲妻が降り注ぎ、鳥居の脚をしたたかに撃ち抜いた。

 石畳を砕く轟音の中、櫓に満ちる黄金の光。その中央に、奇跡のように、精悍なる若き男の幻影が形作られていくではないか――。

「生き長らえよ、お蓮――いや、サスケ」

 荒い息の下、心の臓をかきむしるように呻く桔梗の表情を窺い知ることはできない。

「…そなたの秘められし〈力〉が、いずれ天下に裁きを下すその日まで」

 遥か上空、唸る雷雲の狭間から、儀式の一部始終をうかがうように見え隠れする影。
 無数の鱗を纏い、泳ぐがごとく空を蛇行する姿は、この世のものではない、天より降りし赤き龍。

 それはやがて『花房組』、そして華のお江戸をも狂乱の渦へと巻き込んでいく、禍々しき鬼子(おにご)伝説の幕開けだった。


 秋晴れの朝。神田は京橋近くの裏通りに、女の叫びがこだまする。

「無礼者っ! それ以上近づくと大声を出します!」

 のどかな町屋に不似合いな錦の小袖に身を包む若い女中が、短刀を構え眼前の浪人たちを見据えた。

 深編笠の下の顔は見えない。各々白刃を抜き、鋭い殺気を惜しげもなく放っている。

「そなたに評定所へ駆け込まれては、少々都合の悪いお方がいらっしゃるものでな」

 頭目とみえる男が、女中の襟元にのぞく書状を一瞥した。相当の手練か、一分の隙も見えない研ぎ澄まされた動きだ。

「くたばれぃっ!」
 振り上げられた刃が、女中の身体を無残にも斬り捨てる――その直前。

「ごめんあそばせ!」
「!?」

 頭上より響く声。見上げるより早く、男たちの視界は暗転し、振動とともに一気に宙へと引きずり揚げられていた。

「なっ、何だこれは!?」
「えぇい、降ろさぬか!」

 火の見櫓の頂に据えられた滑車、その真下で振り子のように揺れる巨大な麻袋。文字通り一網打尽にされた男たちの姿は、網にかかった雑魚そのものだった。

「乙女に刃を向けるなんて、許せません! そこで頭を冷やすとよろしいですわ」

 舞い降りた風。振り向く女中の視線の先に、白磁の頬を愛らしく膨らませる小柄な娘の姿が映った。

 『花房組』の一員、凛。水色の小袖姿に、小ぶりの風呂敷包みを小脇に抱えているところをみると、奉公先の茶屋の使いの帰りのようだ。

「さっ、はやくこちらへ!」
「え、えぇ……」

 中から袋を裂こうとする気配に、空いている手で女中の手を取る。和菓子のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、凍てついた彼女の心を溶かしていく――。

 その光景はさながら、性別を超えた愛の逃避行のようだった。


「凛! 怪我ぁないかい!?」

 伝令係であるななからの矢文を受け、針子の内職も早々に駆けつけてくる蘭。上がりかまちで出迎えた凛が苦笑する。

「大げさですわ、蘭ったら。伊達にあなたの妹じゃありませんわよ」

 ここは凛の奉公先・日本橋の甘味処『天下茶屋』の裏手にひっそりとたたずむ小屋。巷では『奇人』の名で知られる老店主・天下茶屋串之介が、凛のために特別に開放している、自室兼カラクリ製造所だ。

 そして蘭に神田錦町串之介長屋の元締めを任せているのもまた、この主。

 珍しい物好きの性分が高じた無償の善意は、『花房組』の江戸潜伏における得難い後ろ盾であった。

「こないだの『お勤め』の後始末に行ったおかげで、思わぬ人助けができたみてーだな!」

 天井からぶら下がる機材を避けながら、ニカッと満足げに笑うなな。火の見櫓の滑車は、凛が逃走経路に仕込んでおいた、追っ手攪乱用カラクリのひとつだったのだ。

「…で? 昼日中から命を狙われるなんざ、よっぽどのわけがありそうじゃないか」
 腕組みする蘭に、女中は床に三つ指を着き、深々と頭を垂れた。

「申し遅れました。私は江戸城大奥腰元、小萩(こはぎ)と申します」

「まぁっ、大奥!?」
 両手を胸の前で組み、凛が瞳を輝かせた。

 大奥――それは徳川将軍家の後宮。江戸城本丸の約六割もの敷地を占める豪邸に、将軍の奥方や側室、そして彼女らに仕える数千もの女中たちが暮らしているという。

 奥に仕える女中は公家・武家の娘から百姓の娘までと様々で、身分に関わりなく出世は思いのまま。
 たとえ出世を目指さずとも、行儀作法を学んで帰れば後に良縁にも恵まれるとあらば、江戸の娘たちがこぞって奥勤めに憧れるのも無理はなかった。

 だが、顔を上げた小萩の瞳は悲痛な涙に濡れている。

「あなた方を見込んでお頼み申します。どうか、御台様のお命をお救いいただきたいのです!」

「一体どういうことですの? それに、御台様ってまさか…」
 うなずく小萩の口からこぼれた高貴なる名は。

「時の将軍、徳川家鷹(いえたか)様御正室――一条撫子(なでしこ)様です」

「しょ、将軍様の、御正室ぅ~っっ!?」
 さすがのななも、叫びとともに後ずさる。蘭は静かに目を伏せた。

(…どうやら、このままのんきに義賊家業ってわけにもいかなくなってきたようだねぇ)

 蘭、凛、蓮の三姉妹の母である忍びの郷の女長(おさ)から『花房組』に託された密命は、将軍の命を奪い、幕府を転覆させること。
 命に逆らい時を稼いできたが、それもすでに限界ということか。

 逆らえない運命が、やがては全てを呑み込むのなら。

(――流されるのは性に合わない)

 膝を折り視線の高さを小萩に合わせると、涙に濡れた手を取った。固い決意の表れであるように。

「小萩。その話、詳しく聞かせてもらおうじゃないか」

女心と秋の空 ― 清四郎 ― ← → 第二幕