花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―
〈第二幕〉
小石川の掘割沿いを歩く桔梗の肩に、蘭からの結び文を携えた白銀の鳩がゆるやかに降り立った。
「…世話をかけた。しばしくつろぐがよい」
名を鳩三郎(はとさぶろう)。桔梗が忍びの郷から連れてきた伝書鳩であり、相棒だ。平時は彼女が巫女として仕える神田明神の境内にて、群れに紛れて暮らしている。
凛の助けた奥女中・小萩が携えていたのは、評定所への直訴状。町奉行所が町民の罪を裁く機関なら、評定所は同じく武家の不正を裁く、公儀直属の裁判所だ。
『大奥は、外界と完全に隔離された世界…。将軍様のご寵愛を奪い合い、お世継ぎを生み育てるという特異性から、〈奥方の儀、何事によらず外様へ洩らすまじきこと〉という誓詞により、すべてが極秘事項とされてきました』
蘭からの文の行間より、涙ながらの小萩の訴えが目に浮かんだ。
『ところが、その極秘事項の中に、〈京から輿入れせし女子(おなご)、御台所・側室問わず、すみやかに殺すべし〉という、恐ろしい密約があるらしいことがわかったのです』
歴代の徳川将軍家の正室には、京の宮家(天皇家)、または公家より、やんごとなき血筋の女子を下向させ輿入れさせるのが通例となっている。――ただ。
(現将軍は、未だ側室を持たぬ身。正室との間に世継ぎが生まれ、将軍家に宮家の血を持ち込まれては、いずれ災いの種になるということか…)
「――氷の巫女?」
「!」
手のひらの中の文を握り潰す。振り向けば、掘割沿いの柳の枝を暖簾のように避けこちらへ向かってくる若い侍の姿が見えた。
「そなた…たしか、矢上」
南町の新米定町廻り、矢上清四郎。蘭たちの行きつけの寿司屋『華屋』にて初めて見(まみ)えて以来、幾度か顔を合わせている。
「奇遇だな、巫女。しかし、かような場所で会おうとは」
言われて見上げた目線の先に、傍らの門前の看板が映る。
小石川養生所。かつて徳川家の薬草園であった小石川薬園内に開設された、無料の医療施設。患者の身分を問わず、漢方医学による手厚い治療が行われている。
「もしや、どこぞ身体の具合でも?」
「…否。我は、暮れ六つより開かれる薬膳の講義を聴きに参ったのみ」
薬学を得意とする桔梗は、巫女の務めの傍ら、『花房組』の使用する忍び道具の爆弾・煙玉から、解毒剤・眠り薬・幻覚作用を起こさせる香まで、様々な妙薬を開発している。
「ならばよいのだが。――いや、むしろ尚更用心すべきか…」
「…?」
にわかに曇る清四郎の表情。十手持ちとしてのその顔に、桔梗は瞬時に警戒の糸を張る。
「実はこの薬園内にて、御禁制の毒草が栽培されているとの噂があるのだ。さらにはその毒を、御殿医を通じ、恐れ多くも江戸城内へと流しておる町医者がおるらしいと」
「………」
かつては町奉行所の配下であった養生所も、この時代には民に委託され町医者たちによる運営となっている。
城内へ流された毒の用途までは、未だ明らかにはされていないが、しかし。
「相手が御殿医となれば、我ら町方の手の及ぶところではない。だが、もし諸悪の根源である毒草を証拠として押さえることができれば…… ――っ!?」
ふいに桔梗が強い力で清四郎の口元を押さえた。有無を言わさずそのまま物陰へ引きずり込む。
か細い柳の木の向こう、息を潜めるふたりの脇を、片手に薬箱を提げた町医者がゆるゆると通り過ぎていった。
「…熱心なのはよいが、周囲には気を配ることだな」
耳元で囁き、桔梗はようやく縛を解く。何か言いたげな清四郎の言葉を視線で封じる。かけらの感情も読まれることを許さない、氷の瞳。
「疑わしき儀あらば届け出よう。…御免」
きびすを返し、足早に門内へと消えていく。その肩で、火急の役目を察知した鳩三郎が、ひとつ小さく鳴いた。
それから数日の後。まぶしい朝日の差し込む縁側にて。
「ぽちっとな、ですわっ!」
手にした小さな木箱の上の引き金を、凛が親指の先でおもむろに倒す。と、目前の畳に据えられた台車の荷台が上がり、山のように積み上げられた重い布団が軽々と宙へ浮き上がった。
「な、なんじゃ、あの奇っ怪なカラクリは!?」
「まやかしでも見ているようにござりまする…」
居並ぶ女たちの間からどよめきが起こった。
エレキテルを利用した、遠隔操作のカラクリ。台車の車輪が回転し、軽く五十組はあるとみられる布団が、隣の納戸へと一気に運び込まれていった。
ここは江戸城大奥、長局(ながつぼね)。奥女中たちの中でもお端下の者たちが寝食を共にする、いわば女子寮である。
「うふふっ、試運転は成功ですわ! これで今日から、朝晩のお布団の出し入れの時間を大幅に短縮できます」
嬉しげに頬をほころばせる。『必要は発明の母』とはこのことだ。
小萩を自宅のカラクリ小屋へかくまい、はや数日。折り良く舞い込んだ新入り女中公募の選考を経て、凛は見事大奥へと潜入していた。茶屋で奉公をしている彼女にはうってつけの役目だ。
物珍しげにカラクリに群がる女中たちを見守っていたが。
「きゃん!?」
ふいに背後から突き飛ばされ、顔面から廊下へ滑り込む。
鼻をさすりながら見上げれば、いかにも柄の悪そうな二人組の女中が、ハスに構えた視線でこちらを睨みつけていた。
「フン、ちょっと奇抜なもんが造れるからっていい気になるんじゃないよ」
「そうよ、ポッと出の新人のくせに、生意気なのよ」
「…!」
同じ大部屋に住まう先輩女中たち。厳しい掟に縛られた大奥、日頃の鬱憤晴らしに、新入りでもいびってやろうという腹か。うつむいた凛の肩が小刻みに震える。
「あら、この程度で泣いてるのかしら?」
「なんとか言ったらどうなんだい、えぇ!?」
ひとりが掴みかかろうとした途端、その手をガシッと握り返す凛。なぜか頬は紅潮し、瞳は歓喜にきらめいている。
「あぁっ…。これが噂に聞く、『大奥の新入りいじめ』ですのね…」
「ちょ、ちょっと…?」
「なんかヤバいよ、この子…」
本能的に手を振り払い飛び退くふたり。凛は頬の横で両手を組み、恍惚とした表情を浮かべる。
「じつはわたくし、ずっと寂しく思っておりましたの。皆さん、わたくしのカラクリにばかり興味をお持ちになって、どなたも肝心の『洗礼』を授けてくださらないのですもの…」
すっかり青ざめた先輩女中たちに、飛びかかるように突進していく。
「お願い、もっとなじって! 罵倒してくださいなっ!」
「ヒィィッ! よ、寄らないでぇっ!!」
「た、た、助けてぇぇぇっっ!!」
滝のような涙を流しながら、ふたりは一目散に逃げ去っていった。
「まぁ、残念ですわ…」
その背後から、固まったまま一部始終を見ているほかの女中たち。全員が逃げ腰になっている。残念なのはむしろ本人のほうだとは、つゆとも気づいていない様子の凛だった。
「…あら?」
微かな羽音に縁側の外を見上げる。
抜けるような空の下、見慣れた伝書鳩の白銀の羽が、朝日にきらきらと輝いた。
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