花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―〈第三幕〉

花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―

 

〈第三幕〉

 足元の板の間(ま)から伝わる冷気が、身体の熱をじわじわと奪っていく。

 金龍山浅草寺、五重塔の最上階。眼下の仲見世通りの喧騒から完全に隔離された薄暗い一室に、蘭の姿があった。

 立ち込める香の煙。四方の壁には巨大な曼荼羅(まんだら)が掛けられ、強力な結界が張られている。

 部屋の中央に敷かれた布団に縛られるように横たわるのは、幼い末の妹・蓮。

「ひとりだけ矢文への応答もないから心配して来てみりゃ、まさかこんなことになってたなんて…」

 奇跡としかいいようのない光景だった。小さな彼女の全身から、後光のようなまばゆい光が絶え間なく溢れ出してくる。
 その表情が苦しげに歪み、悲痛な呻きが漏れたとき――。

「!!」
 放たれた稲妻が蘭の顔の真横を走り、背後の仏像を粉々に砕いた。

 それは人智を超えた稀有なる〈力〉。天下を塗り替えることも、おそらくは消し去ることすらも可能なほどの。

「この子が宿す謎の〈力〉を、何かが無理やり揺り起こそうとしてる」
 何かが――それとも、誰かが。権力を望む果てしなき欲望のために。

「…蓮は…あたしの大事な妹は、誰の道具にもさせやしないよ!」

 得体の知れない敵を探すように、蘭は鋭く虚空を見据える。眠りつづける蓮の心に、ようやく一筋の光が差し込んだようだった。


「――何者じゃ」

 闇の中で微かに動いた風に、御台所は布団の中で身じろぎもせずささやく。そっとまぶたを上げてみれば、御簾の内側、枕元にうやうやしくかしずく影があった。

「お添い寝役の者たちにも気づかれずにここまで入り込むとは…そなた、ただの女中ではないな」

 布擦れの音とともに身を起こす。寝着の襟元を正すのを待ち、凛は殺しつづけていた気配を解いた。

「ご無礼お許しくださいませ、御台様。わたくしの名は凛――小萩さんの名代で参った者ですわ」
「――!」

 跳ね除けられた布団が闇を舞う。凛が後ずさる間もなく、御台所の白く細い指が、すがるように彼女の手をつかんでいた。

「小萩は…小萩は無事なのじゃな!?」

 月明かりの下に浮かび上がる、憂いの中に希望をたたえた面持ち。その息を呑むような美しさに凛は魅入られる。小さくうなずけば、御台所の両の瞳から清らかな涙が溢れ出した。

「…あの者は、京にて幼き頃よりわらわの小姓として育った乳姉妹じゃ。江戸へ嫁ぐことが決まったとき、腰元として共に参ってくれると知り、どれほど心強かったことか…」

 懐かしい日々を思い返すように目を細める。

「宮家より将軍家へ下向した女子が長くは生きられぬことは、最初からわかっていた。じゃが小萩は、自らの命を危険に晒してまで、その運命を変えようと…」

 力なく畳に伏した細い肩が、小刻みに震えている。思わず抱きしめそうになる気持ちを抑え、凛は再び平伏した。日陰の者である忍びが自ら将軍家の御台所に触れるなど、断じて許されないことだ。

「御仲居(おなかい・お膳係)の目を盗み、お毒見前とお毒見後の御台様のお膳を調べましたら、なぜかお毒見後のお膳にのみ、微かな毒物が検出されたのですわ」

 桔梗からの文を受けたあの日以来、鳩三郎に御台所の毎食の一部を運ばせ、調べてもらっていたのだ。

「お毒見後のお膳に触れられるとすれば、御仲居の中でも限られた上役の者。――または」
 はばかるように声を潜める。

「大奥内にて人を動かすことのできる、大きな権力を持つ者が、背後に控えているとも考えられますわ」

 あろうことか己に仕えるはずの者たちに命を狙われる。それは凛には到底計り知れない深い悲しみ。しかし。

「…どうかお生きくださいまし、御台様」
「凛…」
 ぐっと御台所の顔を見上げる。大きな瞳の奥から伝わる真っ直ぐな想い。

「あなた様を心からお慕い申し上げる小萩さん、そして、今後もこちらへ御輿入れされてくるでしょう、未来の宮家の女性たちのために」

 自らが道となり、この悪しき殺人の伝統を打ち壊す。

「…そうじゃな。宮家と将軍家の行く末を左右する、重き使命を帯びた我が身。なんとしても、生き延びねばならぬ」
「はいっ!」

「――御台様、そこにどなたかいらっしゃるのですか?」
「!!」

 御簾の外から響いた声に、とっさに凛を背後へかばう。しかし振り向いたとき――彼女の姿は、すでに深い闇の中へと消えた後だった。

 『花房組』が暗殺を命じられている将軍の妻である、御台所。

(将軍様がどのようなお方であるのかは、今のわたくしにはわからない。でも――)
 天守閣の屋根の上、凛は満天の星空を見上げる。

(わたくしは、御台様を信じますわ。親友である小萩さんのためにあのお方が流された、穢れなき真実の涙を…)

 闇へ吸い込まれ消えていく、流星の輝き。
 日に日に豊かさを増す月は、間もなく半月を迎えようとしていた。


 数日後――お江戸は下町小石川。
 人払いのされた養生所の一室に、ひそやかな声が響く。

「こちらが今月分の薬草にございます」

 螺鈿(らでん)細工の文箱に忍ばせるように詰められた、つい今しがた摘み取られたばかりの紫色の葉。シソに酷似した見た目とは裏腹に、一枚で数十名の命が奪われるほどの危険な毒草だ。

 目の前の女に箱を差し出す、壮年の男。白衣に縫い付けられた名札に記された名は、『藪井』。

 藪井竹庵(やぶい・ちくあん)。現在の養生所の副所長を務める、重役の町医者だ。渋みの効いたその眼差しに、仮病まで使い通い詰めてくる熱心な女の患者たちもいるという。

 と。藪井の頭上、音もなく外された天井板の向こう側に、猫のように丸まり息を潜めるななの姿。

(ヘッ、世も末だぜ。人の命を救うはずの医者が、やるに事欠いてコロシの手伝いかよ)

 忍びの郷での厳しい修行で、様々な野草の知識を身につけてきた。薬品を自在に操る桔梗のようにとまではいかずとも、毒と薬の見分け程度はできる。

(けど、相手の女は誰だ? 見たとこ、お忍びの重役奥女中って感じだけどな)

 大奥は、男子禁制の女の園。奥に仕える女子たちは、その年齢・役職を問わず、将軍を除くいかなる男とも、親密な接触は禁じられている。

「それにしても、薬の受け渡しなら、いつものように御殿医どのを介してでもできたはず。貴女ほどのお方が、このような場所に出入りされては…」

 竹庵の言葉をさえぎるように、女は熱っぽい視線を絡ませ、逞しい肩にしなだれかかる。

「つれないことを申すな。私の気持ちくらい、とうに気づいておるのであろう?」

(――標的確認!――)

 ななの薄茶色の瞳が、ふいに光を帯びた明るい碧色に変化した。それはまるで、エレキテルを流された小型の機械の画面のよう。

 標的である女の人相、ほくろの位置、しわの深さ――そのひとつひとつを、画像として脳に鮮明に刻み込んでいく。

(――記憶完了!――)

 一度覚えた顔と名は記憶から瞬時に取り出すことができ、過去・未来の人相の予測も可能。ななの忍びとしての特殊能力。それは瓦版の記者兼売り子という江戸での彼女の職業にも、大いに活用されている。

(女の園の愛憎劇、ななが華麗にすっぱ抜いてやんぜ!)

 獲物を狙う猫のように、彼女の心がひとつ大きく跳ね上がった。

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