花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―
〈第六幕〉(最終話)
数日の後、魚河岸の豪快な競りの声と諸国からの観光客でにぎわう日本橋。
「やっぱオマエにゃ、そのカッコがいちばん似合ってんぜ」
『天下茶屋』の店先、食べかけの芋ようかんの楊枝でこちらを指すななに、いつもの小袖と白い前掛け姿の凛がにっこりと笑んだ。
店主・串之介のはからいで長期休暇扱いとなっていた看板娘の帰還に、馴染みの客たちの財布の紐もすっかり緩んでいる。
「結局、竹庵さんと富士局様の熱愛記事は書かなかったんですのね」
ななの隣、緋毛氈(ひもうせん)の椅子の上に一枚置かれた瓦版には、『養生所の醜聞』『大奥の深き闇』のふたつの大見出し。かつて世間を騒がせた大奥御年寄・絵島と歌舞伎役者・生島新五郎の例もあるように、奥女中の熱愛騒動はお江戸の町民たちの恰好の噂のネタのはずだ。
「人の恋路を見世もんにすんのは、やっぱシュミじゃねーよ。しかも片方は死んじまったし。今さら騒いだってしょうがねーだろ」
大奥の慣例に従い、宮家の血を引く御台所の暗殺を企てた富士局。だが、それもすべては将軍家の行く末を憂慮してのこと。
長年の奥における功績と御台所からの嘆願により、富士局は極刑を免れ、実家のある甲斐国への蟄居の沙汰が下された。
命は永らえようとも、自らの謀略の巻き添えで愛する者を死なせてしまった悲しみは、永遠に消えることはないのだろう。
「優しいんですのね。ななのそういうところ、大好きですわ」
「その台詞、オマエが言うとシャレんなんねーから!」
皿を手にしたまま青い顔でのけぞるなな。その逆さまの視界の中に、遠く浅草寺の朱塗りの五重塔が映る。
「蓮のヤツ、はやくここにも顔見せられるといいな」
「…えぇ…」
蓮の音信不通の理由が蘭から皆へ矢文で知らされたのは、今回のお勤めのすべてが片付いた後のことだった。
あの十三夜の夜以来、鳩三郎を介して連絡は取り合ってはいるが、五人が揃って顔を合わせる機会は未だに持てていない。
(様子がおかしいですわ、蘭ったら。また何かひとりで抱え込んでいないとよいのですけれど…)
凛の表情が寂しげに曇る。共に生を受けたはずの半身が、今は少しだけ、遠く感じる。
縁日でにぎわう浅草寺の境内。今朝方ようやく意識を取り戻した蓮が、仲見世通りを無邪気な笑顔で駆けていく。
「蘭ねえさまっ、僧正さまぁ! 早く早くぅ~なのです!」
「あぁ、今行くよ」
まるで何事もなかったかのようなその元気な姿に、蘭はひとつ安堵の息をつく。
傍らで見守る白い顎ひげの老僧・浅草寺栄海。
この寺の住職であり、蓮を稚児として預かっている江戸での保護者。そして、『花房組』五人を除けば江戸で唯一、蓮が男児であることを知る人物だ。
「お蓮の神気がにわかに高まったのは、先日の新月の夜じゃった。すぐさま呪術と曼荼羅にて結界を施したが、次は抑えきれるかどうか…」
蓮の〈力〉を揺り起こしたものの正体は、結局突き止めることはできなかった。
栄海の術、そして凛の開発した髪飾りをはじめとする数々の制御装置により、余剰な〈力〉を無理やり体内へと押し戻したのみだ。
栄海は、過ぎ去りし日の残像を探すように秋の空に視線を投じる。
「…一年前、半死半生のそなたがお蓮とともに初めてこの寺に現れた日のことは、今でもはっきりと覚えておる」
そう、ちょうど一年前――折からの台風の運んできた暴風雨が八百八町を震撼させた夜。
『…あんたの〈力〉も悲しみも、このあたしが全て受け止める…』
冷たい雨の中、自ら流した血の海にうずくまり――それでも蘭は天を見上げつづけた。非情なる現実から決して目を逸らさずに。
五重塔の頂に立つ精悍なる若き男。後光のごとく溢れる光が、充填される弾丸のように左手に集約されていく。
『覚えときな、蓮…。あんたはいつだって…』
その手が真横へ鋭く凪がれたとき――。
『あたしと凛の、何より大切な妹なんだ…!!』
世界を呑み込む黄金色の中、季節外れの雷電が、蘭の身体を轟音とともに撃ち抜いた――。
「お蘭よ、これでもまだ語ってはくれぬのか。あの幼子の、稀有なる〈力〉の秘密を…」
「僧正様」
雑踏の中、蓮の去った雷門の方角を見つめながら、蘭は静かに言葉を探す。
「申し訳なく思ってる。生国も事情もなにひとつ明かさないあたしらを、こうして受け入れて、蓮を預かり護ってくれてることにも、本当に感謝してる」
それは心からの言葉。江戸へ来てから、栄海や『天下茶屋』の店主、『華屋』の大将に板前の太助、陽気な長屋の店子たち――数え切れない人々から与えられつづけてきた、無償の愛情。
「だからこそ、言えないのさ。僧正様やこの寺、そして平和な江戸の町を、あたしら一族の呪われた運命にこれ以上巻き込むわけにゃぁいかない。堪忍しとくれよ」
両の拳が握り締められる。揺るがぬ決意の表れであるように。
その想いを汲み取り、栄海は大きく頷いた。
「…そうか…ならばもう何も申さぬ。じゃが、たとえどんな理由があろうとも、己の身を犠牲にだけはしてくれるな。すでにそなたにはこの江戸に、帰るべき場所が山ほどあるのじゃからな」
蘭はようやく振り返る。全ての憂いを吹っ切った、いつもどおりの不敵な笑顔で。
「あぁ。これからも妹のこと頼んだよ、僧正様!」
姉妹の姿が縁日の中に消えた後――社殿脇の暗がりからのっそりと現れる影。壁に背を着き、ぶつけるように後頭部を預ける。
「…まったく、あの娘には驚かされるのぉ…」
「これは、小山田様…!」
南町奉行所定町廻り筆頭同心・小山田金造。神出鬼没な八丁堀の鬼に、栄海は深々と頭を垂れる。
軽く手で制し、小山田は袖の中から取り出した紙片を栄海に渡す。それは、先日蘭が匿名で奉行所へ投げ込んだ、毒草栽培に関する告発文。
「あやつの申すお蓮の〈力〉や『一族』、『呪われた運命』のことまでは、わしにはわからん。だが、女義賊の一党の長として、仲間らの命を背負い立ちつづけるあやつの重責は、痛いほどわかっておるつもりだ」
これまで受けた江戸での恩を返すため、義賊となって弱きを助ける。それが『花房組』の義。
だが、彼女はまだ知らない。己自身もまた、弱さを併せ持つただのひとりの人間であることを。
「…御仏よ。どうかあの娘に、支えとなる者をお与えくださりませ」
社殿を仰ぎ合掌する栄海に、小山田が目を伏せたまま小さく笑んだ。
神田錦町串之介長屋。すでに見慣れた突き当りの店(たな)、引き戸を軽く叩こうと掲げた清四郎の拳が、ふと止まる。
(……拙者に、一体何ができる……?)
確かめるべき事実はただひとつ。それは当然わかっている。だがその答えを知った後、己の選ぶべき道がどうしても見えてこない。
『シャキッとしな、このすっとこどっこい!』
初めて蘭と会ったとき、乱暴に掴み上げられた襟元の感触が、ふいに鮮明に甦る。
教えて欲しい、あの日のように。強く穢れなき眼差しで、拙者の進むべき道を照らしつづけていて欲しい。
そう、闇夜に輝く月のように。
「まこと、『すっとこどっこい』だな…」
行き場をなくした拳に、自嘲するように眉間をぶつける。未だ答えは見えてこない。
一方、そこから数里、お江戸の南の玄関口・品川宿にて。
「臭ェ臭ェ、神気がぷんぷんしてやがる…」
旅笠の縁を上げ、流浪の渡世人に姿を変えた風魔小太郎が不気味に嗤(わら)う。
「オレ様が東海道で道草食ってる間に、お江戸はますます騒がしくなってきてやがるぜ!」
そしてお江戸の北西部、江戸城を真南に臨む小石川養生所。
「役者は揃いました。狂乱の宴の始まりです」
所長室の窓辺にたたずむ伊勢早雲の眼差しに、鋭い光が宿る――。
「蘭ねえさま、りんご飴食べたいのです!」
「しょうがないねぇ、今日だけだよ」
つないだ小さな手の温もりを心に噛み締めながら。蘭は、何事もないこの日常が、一日でも長くつづいていくことを願った。
― 百花繚乱の巻・完 ―
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