花房幻影伝 お蘭! ― 百花繚乱の巻 ―
〈第五幕〉
時を同じくして。小石川養生所の裏手に位置する薬草畑に、竹庵の姿があった。
この数ヶ月、神田佐久間町に新設されたばかりの『医学館』(漢方医学校)へ長期出張中である所長に代わり、診療所の運営はすべて副所長である竹庵に一任されている。
普段から人気のないこの場所に立ち寄るのは、診療時間終了後の見廻り時のみ。恋仲である富士局から依頼され密かに栽培している、毒草の手入れをするためだ。だが、今日は。
畑を見渡した竹庵は、ただならぬ異変に気づく。
「まさかっ……何だこれは!?」
手にした提灯をかざす。つい昨夜まで毒草が生えていたはずのその場所で、夜風に揺れる可憐な青紫色の花。
「…秋の野に 咲きたる花を 指折(およびを)り かき数ふれば 七草の花」
「!」
木霊(こだま)のように降り注ぐ声。見上げた樹上、月光を背に、ひとつの影が切り絵のように浮かび上がる。
深い闇を思わせる漆黒の装束に身を包んだ娘――桔梗。傍らで揺れる花と同じ名を持つ者。幹を蹴り、音もなく地面に降り立った。
後ずさる竹庵を遮るように、背後にもうひとつの影が迫る。夜空を思わせる紺色の装束姿の蘭。
「医者という立場にありながら、罪なき者の毒殺未遂の片棒を担ぐたぁ不届き千万! 御局様が許しても、このあたしらが黙っちゃいないよ!」
ななが竹庵の悪事を突き止めて以来、桔梗は度々養生所に通っては毒草畑のありかを探っていた。毒草を根絶やしにした後、自作の栄養剤にて半日にして桔梗の花畑を作り上げたのだ。
だが、追い詰められた竹庵に焦りの色はない。
「ふん…そこまで知られては、生きて返すわけにはいかんな」
「!」
いつの間に現れたのか、周囲をぐるりと取り囲む深編笠の浪人たち。おそらく、最初に小萩を襲い凛のカラクリ投網の餌食になった刺客たちだろう。富士局が竹庵のために雇っていた用心棒だったのだ。
抜き放たれた白刃に、月の光が反射する。
「地獄へ旅立つ前に聞かせてもらおう。お前たちは一体何者だ?」
うつむく蘭の唇の端が妖艶に歪む。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。弱きを助け強きを挫く――」
敵を見据え、高らかに啖呵を切った。
「女義賊『花房組』たぁ、このあたしたちのことさ!」
斬りかかかる男たちのみぞおちを蹴り込み、一気に上空へ舞い上がる。宙返りをして降り立った先、背中を預けた桔梗の手の中で、朱房に映える十二連の神楽鈴が涼やかに鳴る。
「…地獄を見るはうぬらの方ぞ」
目の前の地面には、すでに鈴の柄部分で打ち倒された数名の男たち。得意の催眠香を使うほどもない相手だ。
ものの数秒もかからず、浪人どもは揃ってふたりの足元に倒れ込むことになる。
「さて、ここであんたを懲らしめてもいいが…」
じりじりと後ずさる竹庵。と、眩い光が突如視界を覆った。
養生所を取り囲む塀の向こうに、天高く掲げられた無数の御用提灯。
「今回は、奉行所の情報にずいぶん助けられたからねぇ。癪に障るが、手柄は町方に譲ってやるさ」
「!!」
蘭たちの姿が掻き消えたのと同時に、竹庵の背後、裏口の門が破られる。紫房の十手を采配のごとく振り上げた南町筆頭同心・小山田が、雷のような声で一喝した。
「南町奉行所、捕り物出役である! 養生所副所長・藪井竹庵、御禁制の毒草栽培および殺人未遂の罪で召し捕らえる。神妙にいたせ!」
怒涛のごとくなだれ込んでくる、軽装の甲冑姿の同心たち。抵抗する浪人たちを打ちのめし、次々と縄をかけていった。毒草の現物とともに、匿名の告発文を奉行所の軒先へ投げ込んだのは、他でもない蘭自身であった。
樹上に身を潜め捕り物の行方を見守る蘭と桔梗の眼下を、馴染みの若者が駆け抜ける。
八丁堀の勘を頼りに、人知れず養生所の張り込みをつづけてきた清四郎だ。
「そこまでだ、藪井! おとなしく縛につけ!」
逃走しようとした竹庵の前に立ちはだかり、十手を構える。
「チッ、小うるさく付き纏っていた若造か…」
竹庵の顔色が変わった。自分の人相を知る者は、この場に清四郎ただひとり。召し捕られれば極刑は免れまい。
恐怖を愉しむように薄い笑みを浮かべる。
「悪いが貴様には死んでもらう」
「!?」
かちり、と冷たい金属音が響いた。白衣の懐から取り出したのは重々しい短銃。五匁懐筒(ごもんめふところづつ)、護身用の和式拳銃だ。
「!!」
蘭の背に戦慄が走った。
自分がいるのは清四郎の真上に位置する樹上、竹庵との距離はさらに十数尺。手裏剣や扇子を投じても間に合う距離ではない。懐筒の命中率が低いことは熟知しているが、運悪く頭や心の臓を貫かれれば一巻の終わり。
竹庵の指が引き金にかかる。躊躇う余裕はない――。
「――清四郎っ!!」
乾いた銃声が響いた。慣れない発砲の反動に、竹庵が背後へ倒れ込む。その直後、桔梗の放った催涙弾が炸裂し、竹庵はむせ返りながら這うように建物の裏手へと逃げ去っていった。
――地面に打ち付けた後頭部が鈍く痛む。銃口を向けられたところまでの記憶はあるが、その後は定かでない。
身体の上に覆い被さるように触れる温かな感触。そして、どこか覚えのある艶やかな香の匂い。
月明かりの下、こぼれ落ちる豊かな黒髪の向こう、身を起こした相手の顔が露になる。
それは決してここにあるはずのないもの。動揺に揺れる、果てしなく澄んだ一対のガラス玉の瞳。
「……お蘭……?」
「…っ!!」
身体を離し、蘭は背後へ飛び退く。塀を一気に乗り越えると、未だつづく捕り物の喧騒を振り払うように闇の中へと身を投じた。
(何やってんだい、あたしは…!)
様々な想いが渦を巻いて押し寄せた。女義賊――忍びである己の正体を明かす、それは自分のみならず大切な仲間たちの命をも危険に晒すのと同じこと。
油断していた? 未だ目覚めない蓮への想いが無意識に自分を弱くした? それとも。
どこかで、弱みを見せることを許してくれる相手を求めていた…?
(あたしは、忍びの頭領失格だ……)
溢れた想いが雫となって風に散る。それは彼女が他の誰の前でも見せたことのない、歳相応のひとりの娘の、脆い心の欠片だった。
養生所の裏手、捕り物の喧騒から幾分離れた病棟の影。入り組んだ通路を音もなく駆ける桔梗の耳に、悲痛な声が飛び込む。
「う、ぐぁあっ…!」
まるで断末魔の叫び。気配をたどり、曲がり角の先に見たものは。
短刀にて心の臓を自ら一突きにした竹庵の姿。一分の狂いもないその手際は医師ならではのもの――。
いや、違う。
覚悟の自決と見せかけた他殺。手練の忍びにしか真似できない完璧な犯行。
「随分と邪魔をしてくれたようですね、桔梗」
「――!」
間近に感じた殺気に、桔梗の背が凍りついた。背後を取られた恐怖と、心の臓の真後ろに突きつけられた刃が、見えない糸となり彼女の身体を縛りつける。
「井戸の隠し通路を暴いただけでは飽き足らず、不浄役人どもに敷地内を汚させるとは。『敵は身内にあり』とはこのことです」
冷たい吐息が耳元をくすぐる。
「あと一歩で、将軍も御台所もまとめて始末することができたものを…」
「っ!」
打ち込んだ神楽鈴の一撃を木綿のようにかわされる。間合いをとって振り返る桔梗の瞳に、齢二十五前後とみえる若き町医者の姿が映った。
短刀を握る手とは逆の手に、摘んだばかりの桔梗の花束。
「何を血迷っているのです? 徳川幕府を転覆させ、我らがお家を再興させる――それは過去二百年にわたる一族の悲願であったはず。よもや忘れたわけではないでしょう」
返り血ひとつ浴びていないにもかかわらず、男の身体からは拭い去れない血の臭いが立ち昇っていた。張り付いた仮面のような笑顔。そして、研ぎ澄まされた刃を思わせる、桔梗と同じ白銀の髪。
「使えるものはすべて利用する。大瀬の郷も『伝説の鬼子』も、我らにとってはその駒のひとつに過ぎない――」
男の顔から笑みが消えた。
「たとえ実の妹といえど、次はありません。心しておきなさい」
「早雲所長っ、今お戻りになられたのですか!?」
「竹庵先生が、竹庵先生が……!」
張り詰めた糸が切れるように、男の背後から複数の気配が近づく。駆け寄ってきたのは養生所の助手たち。白銀の髪の男――小石川養生所所長・伊勢早雲は、慈愛に満ちた仏のごとき眼差しで振り返る。
「竹庵先生は、自らの罪を悔いご自害なされました。他に毒草栽培に関わった者はいない様子…。すべては終わったのです」
その瞳からこぼれ落ちる熱い涙。すがりついてくる助手たちの肩を抱きしめ嗚咽する早雲の姿に、桔梗は病棟の陰、冷たく波打つ心の臓を必死で押さえる。
「…承知いたしました、…兄上…」
震える唇が、湧き上がる激情を呑み込むように引き締められた。それは『氷の巫女』と称される彼女の心の水底に沈められた葛藤。
運命の歯車が回りだす。風の中、咲き誇る花々を無残にも散らすように。
月はただ静かにすべてを見下ろしている。
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