花房幻影伝 お蘭!〈明けの明星 -なな- / 前編〉

花房幻影伝 お蘭!

 

〈明けの明星 ― なな ― / 前編〉

 ――気に食わねぇ。とにかくすべてが癪にさわる。

 なながアイツに最初に持った感情はそれだった。もちろん今だって同じだし、これからもきっと変わることはねぇと思う。

 だけど、この頃ちょっとだけ思うんだ。認めたくねぇことだけど。

 もしかしたらあの男の存在が、今のななたちの、明日をも見えねぇ闇夜を終わらせてくれる、たったひとつの希望の光になるんじゃねぇか、って――。

 とにかく今日は、両国『華屋』のウワサの回転寿司でもつまみながら、少しの間ななの話を聞いてくれ。


「おい、ヘタレ同心!」

 瓦版売りの帰り道。常磐橋御門(ときわばしごもん)前で、大橋をまっすぐ渡ってくるアイツ――矢上清四郎を見つけて、ななはすぐさま呼び止めた。

 常磐橋御門ってのは、江戸城外郭から外堀に向かって開かれてる、二十のたいそうな見附門(みつけもん)のうちのひとつだ。

 名前のとおり見張り番所付きの城門でよ、武家どもの住む城郭内と、ななたち町人の住む町屋とを結ぶ、玄関口みてぇなもん。

 まぁ橋の行き来は身分に関わらず自由だし。アイツらの勤めてるお江戸のケーサツ・南町奉行所も、橋の向こうの壁の中ってわけだ。

「探してたんだぜ。ちょっとオマエに聞きてぇことが…」

 駆け寄るななに気づいたアイツが、ようやくこっちを振り返る。そこまではいつも通りだったんだけど。

「――っ!」
「……?」

 アイツの顔色が、がらりと変わった。もともと顔に出やすいヤツとは思ってたけど、この反応は明らかに普通じゃねぇ。

 物も言わずに思いっきり目を逸らすと、伝馬町の方角へと足早に歩き始めやがる。ななはすかさず回り込んで、アイツの行く手を遮った。

「テメェ、無視してんじゃねェよ! 用があるって言ってんだろ!」
 張り上げた怒声に、道行くヤツらや御門の門番たちが振り返る。

 …くそっ。自分でもわかってんだよ、これが八つ当たりだってことくらい。
 だけどもう、抑えなんてとっくにきかなくなってた。

「…何か知ってんなら、教えてくれよ。ななはただ、姐御さまのことが心配なだけなんだよっ…!」
「……なな」

 柄にもなく声が震えちまう。あーあ、カッコ悪くて顔も上げらんねぇよ。しかもよりによって、コイツ相手に…。

 何かがおかしいとは思ってたんだ。

 あの、御台所様毒殺未遂事件が片付いた、今からちょうど十日前の十三夜の夜。大奥内での凛との仕事が終わって、姐御さまに鳩三郎を介して文を送った。

 折り返し姐御さまから届いたのは、蓮の容態が急変したっていう短い知らせ。数日後、浅草寺の縁日の朝、蓮はようやく目を覚まして。

 だけど、その日を境に――。
 姐御さまは、ななたちの前から忽然と姿を消しちまったんだ。


「少しは落ち着いたか」

 水茶屋の店先。葭簀(よしず)で仕切られた間に合わせの個室でアイツと向き合いながら、ななはぬるい麦茶をグイッとあおる。

 凛の働いてる日本橋『天下茶屋』まで常磐橋からは目と鼻の先の距離だったけど、なんとなく今顔を合わせるのはバツが悪ぃ感じがして、初めて入るこの店にした。

 …一応いっとくけど、さっきは泣いてたわけじゃねぇからなっ! ちょっと目にでっけぇゴミが入っただけで……っつーか、なながコイツの前で泣くわけなんかねぇし!

「う、うるせーよ! それよりオマエ、ほんとに姐御さまの行方知らねぇのか?」
「…知らぬ」

 こりゃ、マジで知らなそうだぜ。ひと息ついて、いつもよりあからさまに口数の少ねぇアイツの顔を見上げる。

 さっき、完璧にななを避けやがったよな。姐御さまの消息は知らなくても、たぶん何かしらの情報は握ってる。江戸イチバンの『すっぱ抜きのなな様』相手じゃなくたって、オマエのウソはバレバレなんだよ。

「なな。妹分であるそなたは、お蘭とは長い付き合いなのであろうな」
「あん?」

 降って湧いたような問いに、口に運びかけてた芋ようかんを寸前で止める。待つみてぇに間をおきやがるから、そのまま口に放り込んで大慌てで飲み込んだ。

「まぁ…凛や桔梗にゃ負けるけどな。凛は双子だからとーぜんだけど、アイツらふたりは、生まれたときからずっと姐御さまと一緒に育ってきたみてぇだし」

 残りのようかんを楊枝でまっぷたつに切ってみる。四つ、八つ…ガマの油の謳い文句みてぇに、山吹色の甘味がほろほろと細切れになっていく。

「ななが姐御さまと出逢ったのは、ななが九つ、姐御さまが十二のとき。今からざっと三年半前だぜ」
「左様か。意外だな。そなたがあまりにあやつを慕うゆえ、てっきり物心つく以前からの仲かと思うておったのだが」

 はぁ? なんだコイツ、ぜんぜんわかってねぇな。

「時間なんてカンケイねーよ! なんたって姐御さまは、ななの命の恩人なんだからな」

 …予想どおり、弾かれたみてーに目を見開いてやがる。まぁ、イキナリ『命の』と来りゃあ無理もねぇか。

 楊枝を下ろして、見る影もなくなったようかんの脇に置く。あんまり人には話したことなかったけど…なんとなく、今なら話せる気がしたんだ。

「姐御さまたちとは違って、ななはもともと出羽国(現在の秋田県)の生まれでよ」

 一年の半分は冬ってくらいの雪深ぇ山奥で、寒がりのななにとっちゃ地獄みてーな場所だった。…つーか、実はもう、その感覚自体あんまりよく覚えてねぇんだけど。

「ウチは貧しいくせに兄弟ばっか多くって。ななの名前だって、七女だから『なな』だぜ? テキトーすぎて笑っちまうだろ」

 肩をすくめてみせると、アイツもちょっとだけ笑う。
「いや、拙者も矢上家の養子となるまでは、上野国(現在の群馬県)の郷士の四男であったゆえな。似たようなものだ」
「ふーん…四男だから清四郎か」

 コイツ、上州の出だったんだ。養子ってのは珍しくもねぇけどさ。
 こういう話、今まで一度もしたことなかったし、姐御さまも凛たちも知らねぇはずだ。ま、どーでもいいけど。

「んで、しまいにゃ口減らしのために、人買いに売っ飛ばされたんだよ」
「………」

 茶を飲みかけてたアイツの手がぴたりと止まる。
 そりゃそうだろ。部屋住みだろーが何だろーが、曲がりなりにも武家として育ってきたオマエとななとじゃ、修羅場の度合いが違うってんだよ。

 …だけど。ななはまっすぐアイツの目を見た。

「だけどあの日――姐御さまがななに、新しい人生をくれたんだ」


 そう、あれは三年半前――弥生も半ばのよく晴れた朝。ななは、伊豆国の山ん中、箱根の関の次の宿場町・三島宿へとつづく東海道を、ひたすらに歩いてた。

 いや、正しくは歩かされてた。だってななは半月前…よりによって満年齢で九つになったその日の朝に、上方からやってきたっていう人買いの野郎に、『八両』って端(はした)金で買い上げられたんだからよ。

 今の時代、人買いってのはいわゆる女衒(ぜげん)のことだ。江戸の吉原とか京の島原みてーな色里の遊女の見習いとして、年端もいかねぇ娘たちを、全国を渡り歩いて買い集めてくる。…まったく、反吐が出る商売だぜ。

 ななの左手首の手枷に繋がる鎖を乱暴に握った野郎が、険しい山道をずんずん歩いていく。次の瞬間――その首から上が、きれいに身体から分かれて、真後ろにいたななの足元に吹っ飛んできやがったんだ。

 現れたのは、浪人くずれの山賊どもだった。野郎が娘たちを買い歩くためにしこたま持ち歩いてた金から、一文にもならなそうなボロボロの着物まで、容赦なく剥ぎ取っていきやがる。

 その視線がついにこっちに向けられたとき――生まれて初めて死を覚悟した。とっくに脚は震えて立ち上がることもできなくなってて。ただ、返り血に濡れた山賊どもの顔の向こうに広がる空が、あまりに広くて青かったことだけは覚えてる。

 そのときだった。

「あんたたち、誰にことわってここでコロシなんてやってんだい?」

 降り注いだ声。ギョッとして見上げる山賊どもの目の前の樹上に、長い黒髪を無造作に風になびかせる、年の頃十二、三の娘っ子――姐御さまの姿があったんだ。

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