花房幻影伝 お蘭! ― 月光の巻 ―
〈第五幕〉(最終話)
翌朝、お天道様も昇りきらない時分から、神田錦町串之介長屋は上を下への大騒ぎだ。
「うわぁぁ~~ん! これで路頭に迷わずに済むわよ、あんた!」
「あぁ、お峰! まさに天からのお恵みだぜっ!」
山盛りの小判を神棚に供え、弥二郎・お峰が手を取り合う。窓越しには同じように、温かくなった懐に頬を緩ませる店子たちの姿。
往来では今朝いちばんの速報を伝えるはねっかえりの瓦版売りの声が、今が盛りとばかりに響き渡っていた。
「姐御さまぁ~! うちの朝刊、おかげで今朝は完売ッス!」
一仕事終え、跳ねるように部屋へ駆け込んでくるなな。紙面に踊る『大店のバカ息子お縄に』の文字に、蘭は心の底から満足げにうなずいた。
「で、例の物ぁ見つかったのかい?」
答える代わりに差し出されたのは、豪華な錦糸の台紙付きの巻物だ。
「姐御さまの読みどおり、小判と一緒に隠してあったッスよ」
それは将軍家の居城・江戸城の詳細なる間取り図。外壁修繕を請け負っていた備前屋が、お上より特別に賜っていたのだ。
「ま、母上…女長(おさ)からの命である将軍様暗殺は、あたしらの望むところじゃあないが」
「計画が進んでると見せかける、証拠くらいにはなるッスよね♪」
恐れ多くも将軍家からの拝領品、紛失とあらば店主の獄門は免れない。早々に複製し元の蔵へ戻しておかねばなるまい。
硯に向かい蘭が筆を取ったとき。
「御免」
最悪の間で戸が引かれる。現れたのは、店子たちに調書を取りにきた清四郎であった。
「あっ、テメェいつぞやのヘタレ同心!」
「なんだそなたか」
ギョッとしたななが全身で威嚇するが、清四郎はどこ吹く風。ふたりにとっては日本橋での食い逃げ犯捕縛騒動以来の再会、いや実のところ昨夜も顔を合わせているのだが、互いに気づく様子はない。
「いつの間に、姐御さまの家に上がり込む仲になってやがる!?」
「妙な言いがかりはよせ。拙者とて好きで参っておるわけではないわ」
「なにをーっ!?」
猫ばりの跳躍で飛びかかったところを、軽く手のひらで顔面を押さえられジタバタと暴れている。まさに一瞬の勝負であった。
「昨夜のうちに、お江戸の十数軒の長屋の軒先に小判が投げ込まれたらしい。ここもそのひとつに相違ないな」
「あぁ、おかげさんでこの騒ぎさ」
顎で指し、蘭は巻物をそっと鏡台の影に押しやる。
盗賊団である『花房組』の捕縛には、現在、火盗改メ方があたっている。八丁堀と刃を交える所以はないが、用心に越したことはない。
「調書なら表で取っとくれ。なな、案内してやんな」
くっそテメェ表出やがれ、と、喧嘩腰の声が遠ざかる。
つづいて踏み出しかけた清四郎が、ふと足を止めた。
「満月の夜は、空に黄金の花が咲く…か」
何気ないはずの呟きが、急に大きく部屋に響く。外の喧騒をよそに、ふたりの間だけが隔離されたように静まり返る。
沈黙を破ったのは清四郎だった。
「このお江戸には、まだ拙者には思いもつかぬ面白きことが山のようにあるようだ」
「………」
彼方を見つめ、意外にも清々しい眼差しで言うと、朝日の注ぐ屋外へと出て行った。
まぶしさに目を細め――蘭は、ふ、と息をつく。
胸を過ぎる微かな痛みは、光の中で生きる者への飽くなき羨望。闇に消えゆく運命(さだめ)を背負いし乙女たちの、束の間の慕情。
「ながらへば 月に叢雲 花に風」
まぶたを上げた蘭の瞳に、しかし迷いの色はない。
一寸先も見えない夜なら、自ら輝く花火となって、お江戸の空へ打ち上がろう。
「どうせ短きこの命、ならば惜しまず咲くまでさ!」
挑むように笑んだ蘭の表情は、天高き秋空のごとく清く、澄み渡っていた。
ところ変わって相模国、足柄山。
箱根関所にほど近い森の中、人の目も届かぬ大木の枝に悠然と立つ男の姿があった。
「…フーン、面白ェことやってんじゃん?」
耳元で唸る風を払うように、まぶたを上げる。千里眼――手練の『草』のみが会得できるといわれる遠く千里を見渡す忍法にて、江戸の様子を窺っていたのだ。
その眼が捉えたのは他でもない。
「花房お蘭」
クククッと不気味に喉を鳴らす。
長さ一尺はある鉄製の鉤爪を舌先でなぞると、男は天を仰ぎ、狂ったように笑い始めた。長身の背は不自然に丸められ、だらりと下がる両腕が不気味さを増幅させる。
「『伝説の鬼子(おにご)』は、いずれ必ずいただくぜ…。この、十五代目風魔小太郎様がなァ!」
昂(たかぶ)る感情に呼応するように、一陣の風が竜巻を描き、辺りの枝を無残にへし折りながら駆け抜けていった。
やがてお江戸を戦乱の渦へと呑み込んでいく、秋の嵐の前触れのように。
― 月光の巻・完 ―
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