花房幻影伝 お蘭!
〈片割れ月 ― 凛 ― / 前編〉
この世に『抑えきれない想い』があるとしたら、それは一体どのような感情でしょう?
夢? 憧れ? それとも恋心…?
いずれにしても詮無いものですわね。だってそれらはわたくしたち忍びの者にとって、最も危うい、禁忌の感情に他ならないのですから。
けれどもし、その一瞬の輝きに心奪われ、ここではないどこかへと連れ去られてしまう日がわたくしにも来るとしたら――。
悲しいことに、それは決して遠くない未来のことなのかも知れませんわ。
「一体どーしちまったんですかい、お凛さん?」
ふいに名を呼ばれて、わたくしの視界にパッと色彩が戻りましたの。
鮮やかな真紅の長椅子と野点傘(のだてがさ)の並ぶ店の軒先。空の湯呑みを手にこちらを見上げてらっしゃる『華屋』の板前・太助さんに、わたくしはあわてて答えました。
「まぁ、申し訳ありません! ついぼんやりしてしまって…」
寝不足ですかしら、と苦笑しながらお茶を注ぎ足すわたくしに、太助さんがいぶかしげに首を傾げました。
日本橋――お武家様から行商人、霊場めぐりからおのぼりさんまで、多様な方々が途切れることなく行き交うお江戸の目抜き通り。
諸国への交通の基点として後世にまで名を残していく、その橋の袂に店を構える老舗の甘味処、『天下茶屋』。ここが今のわたくしのお勤め先です。
「おっ、ひょっとして、新しいカラクリの試作中ですかい? 前に見してもらった『エレキテル大八車』、ウチの大将がネタの仕入れ用に一台欲しいってぼやいてやしたぜ」
「うふふっ。たしかに今の『華屋』さんの盛況ぶりでは、とてもおふたりきりでは一日分のお魚を運びきれませんわね」
両国『華屋』。蘭がお店の間取り図を引き、お粗末ながらわたくし作のカラクリ『回転寿司太郎 ver.1.0』を据えていただいている、今やお江戸に並ぶところのない人気の江戸前寿司屋さんです。
「江戸っ子らしく、買うなら買う! って決めてくれりゃぁラクなんスけど。あぁ見えてケチ臭ぇトコあって、弱っちまいやすよー」
肩をすくめる太助さん。あらあら、その背後から近づいている影には、残念ながらまったく気づいてらっしゃいませんわ。
「おぅ、どこのどいつがケチ臭ぇってんでぃ?」
「そりゃもちろんウチの……って、た、大将っ!!??」
椅子から転げ落ちる太助さん。怒りの炎をまとった『華屋』の大将・与兵衛さんが、閻魔様もびっくりのお顔で睨みつけてらっしゃいます。
「太助! オメェ、荷揚げの様子聞きに行ったきり帰(けぇ)らねぇと思やぁ、のんきに油ぁ売りやがって! 寿司屋なら寿司ぃ売れってんでぃ、べらぼうめ!」
「いでででっ、勘弁っス大将ぉ~! お、お凛さん、また来やすからねぇ~!」
「うふふ、お待ちしてますわ」
耳を引っ張られて泣きながら去っていかれました。
日本橋川の河岸は広大な魚河岸になっていて、朝早くから威勢のいい競りの声で賑わいますのよ。大将さんと太助さんも毎朝お見かけできて嬉しいです。
けれど、そんな仲のよいおふたりを見送って、ふと心に隙間ができた瞬間…。
忘れようとしていた不安が、わたくしの胸に再び押し寄せてきましたの。
今から半月前――わたくしたち『花房組』が、御台所様暗殺未遂事件を解決した、十三夜の夜。
大奥でのお勤め完了を報告したわたくしたちに、蘭から折り返し届いた文。それは、蘭とわたくしの大切な妹…いえ、弟である蓮の、容態急変の知らせでしたの。
ここだけの話ですが。蓮は、類稀なる不思議な〈力〉を持って、この世に生まれてきました。それはわたくしたちの故郷・伊豆国は大瀬の郷の草たちのみが知る、最重要機密ですの。
郷の者たちはその〈力〉を恐れ、中には蓮を『伝説の鬼子(おにご)』などと呼ぶ者さえいます。心外極まりないことです! 蘭やなな、桔梗だって、当然思いは同じですわ。
蓮の〈力〉の正体は、いまだにわかりません。膨大なエレキテルのような、神々しい黄金の光を宿すということしか。
わたくしにできるのは、郷の女長(おさ)である母上の命に従い、開発した数々の制御装置を蓮に装着させ、〈力〉を体内へと押し戻すのみ。
――でも、わたくしたちは、それが大きな過ちであったことに気づき始めています。
いずれ抑えがきかなくなったとき、蓮の〈力〉は暴走して、たくさんの人々を傷つけることになるでしょう。
…かつてわたくしたちが郷にいた頃。そしてお江戸へ上って間もなくの頃。
忘れられない悲しい『事故』が、すでに二度も起きてしまっているんですもの…。
「…もうっ。わたくしらしくありませんわね!」
ぱちんと両手でほっぺたを叩きました。
部品不足のカラクリは動きません。考えたところで答えの出る問題でないなら、落ち込むなんて時間の無駄ですわ。
気持ちを切り替えて、店の中へ戻ろうとしたときでしたの。
「お凛さん!」
雑踏の中からわたくしを呼んだその声は。
「まぁ、小萩さん!?」
そう。鮮やかな錦の小袖に身を包まれた、御台所様の御腰元(お側仕え)であり親友でいらっしゃる、小萩さんでしたの!
「ご無沙汰しました。その節は、皆様には主ともども大変お世話になりまして…」
「お顔を上げてくださいな。またお会いできて嬉しいですわ!」
ぎゅっと手を取ると、小萩さんもにっこり微笑まれました。
「お凛さん、どうやらあなた方は、この江戸ではとても有名な方々だったようですね」
小声でささやいて、着物の袂から一片の紙を取り出されます。それは『花房組』の記事が書かれた、ちょっと昔の瓦版。
「奥勤めなどしていると、世の中の流れに疎くて恥ずかしい限りです。けれどそのおかげで、こうしてあなた方と、身分や立場などという垣根のない、真の友となることができたのですよね」
「小萩さん…!」
いけない、思わず涙がにじんでしまいました…。
母上は、徳川幕府を転覆させて日ノ本の国を混乱に陥れるために、わたくしたちを江戸へ送りました。
蘭の性格を思えば要らない心配とは思いますけれど、『花房組』はこの先、将軍様のお命を狙う存在にならないとも限らないのですわ。
けれど、わたくしはもう決めてますの。
たとえどんな結末になろうと――御台様と小萩さん、おふたりの命だけは、わたくしがこの身に代えても護り抜こう、って。
それが、闇に消えゆくわたくしたちを「友」と呼んでくださった小萩さんへの、せめてもの恩返しであり、わたくしなりの償いだと思うのですわ。
「今日こちらへ伺ったのは、撫子様――御台様からの文をお届けするためです」
「御台様から!?」
叫んであわてて口を押さえました。
「こちらの文は『花房組』御一同様へ。そしてこちらの文と包みは、お凛さん、あなたへとのことです」
「まぁ…恐れ多いですわ。くれぐれもお礼を申し上げておいてくださいませ」
御台様と直接お目にかかったのは、閨(ねや)の中と、富士局様を追い詰めた観月の宴のときの二度きりです。
あのお方が、親友の小萩さんを想って流された清らかな涙を、わたくしはきっと一生忘れることはないでしょう。
…もしわたくしに、今とは違う生き方があったとしたら。
あのまま大奥で、御台様に生涯お仕えする道を選んでいたのかしら…?
「ではお凛さん、私は失礼いたします。この後、少々寄るところがありまして」
小萩さんの声が、わたくしをハッと現実に呼び戻します。
奥女中の皆さんが、お遣いや寺社参りのついでに城下で足を伸ばされるのは、公然の秘密。
多くはお芝居見物や縁日めぐりですけれど、中には羽目を外して…。
「許しませんわ、殿方と逢引なんてっっ!」
「違います!!」
勢いよく突き出された先ほどの瓦版の片隅には、『富嶽三十六景 再版』の広告。小萩さんの目から、急に滝のような涙が溢れ出しましたの。
「あぁっ、北斎様の幻の名所絵が、半年も前に限定再版されていたなんて! もっと早く気づけば、お城を抜け出してでも買いに来たのにっ…。これから見倒屋(みたおしや・リサイクルショップ)をまわって買い集めるんです!」
『神奈川沖浪裏』なんて絶対残ってるわけないし~~っ! んもぉぉ~!! と、我を忘れて悶絶される小萩さんを、通りすがりの方々がギョッとして見つめます。そういえば小萩さん、絵の心得がおありだったような…。
もしここに清四郎さんがいらしたとしたら、また何かに絶望したようなお顔でガックリと肩を落とされたことでしょう。
うふふ、少しだけ見てみたかった気もします。
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